明治神宮の御苑に湧く湧水の井、清正井。水温は通年15度前後と一定で、毎分60リットルという豊富な水量を誇っています。この清正井は、江戸時代の初めに加藤清正が掘ったと伝えられる伝説の井戸ですが、井戸の写真を撮って、画像を待ち受け画面に設定すると思わぬ効果が得られると喧伝されて、人気のパワースポットになっています。
江戸時代からこんこんと湧く不思議な井戸が「清正井」
現在の明治神宮の敷地は、江戸時代に彦根藩井伊家下屋敷となる以前に、熊本藩加藤家下屋敷があったことから井戸は加藤清正が掘ったと伝えられています。明治神宮御苑の場所が加藤家、井伊家の下屋敷庭園跡だったというわけなのです。
彦根藩井伊家下屋敷だった当時、すでに加藤清正の腰懸石など「清正伝承」が残されていました。
今も水温は四季を通じて15度前後と一定で、今も毎分60リットルの湧水があります。
昭和8年の旱魃で湧水が一旦止まったこともあって、明治神宮では昭和12年に修復工事を行なっています。
その際、それまで謎とされていた、清正井の仕組みと水源が初めて明らかになっています。
水源は明治神宮本殿西側の権殿敷地一帯(現・本殿倉庫)の浅い地下水が2方向の自然の水路に流れ、井戸の上方斜面から井戸に湧出するまったく自然の湧水であることが判明したのです。
その後、平成8年にも工事が行なわれて、清らかな泉は今もこんこんと湧いているのです。
清正が掘ったという伝説は本当!?
加藤清正は尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)の出身。現在、妙行寺(名古屋市中村区中村町木下屋敷22)が建つ場所が生家のあった地と伝えられています。
生誕の地といわれる妙行寺の住所が木下屋敷ということからもわかるように、豊臣秀吉(木下藤吉郎)とは、ご近所。しかも遠縁の親戚。
当然、秀吉に仕え、賤ヶ岳の七本槍の一人として活躍しますが、秀吉の死後は家康に接近。
名古屋城の普請に協力し、豊臣秀頼と家康の二条城での会談を取り持った直後の1611(慶長16)年に没しています。
1611(慶長16)年、三男の加藤忠広が熊本藩主となるが11歳という若さゆえに合議制を採用(清正逝去の時には江戸屋敷にいました)。
無断で母子を江戸から帰国させたことなどにより、1632(寛永9)年に改易となり(熊本藩は幕末まで細川家が治めることに)、子孫は幕末まで庄内藩に仕えることになります。
その後、江戸にあった屋敷は彦根藩井伊家に移ります。
下屋敷は、今の明治神宮ですが、「清正井」は、灌漑事業に才能を発揮した清正だから井戸も当然、清正が陣頭指揮で掘ったに違いないというのが名の由来です。
加藤清正の時代に井戸が掘られたという証拠はありませんが、今まで脈々と続く井戸というのがその証しにもなっているのです。
「加藤家の下屋敷があり加藤清正の子・忠広が住んでいたことは間違いないようですが、清正本人が住んでいたかは定かではありません」と明治神宮は解説しています。
加藤清正時代(江戸時代初期)の熊本藩江戸上屋敷は、現在のホテルニューオータニ周辺ですが、ホテルの日本庭園は、加藤家が築いたのがルーツと伝わっています。
ちなみに熱心な日蓮宗徒だった加藤清正は、母の七回忌にあたる1606(慶長11)年、池上本門寺の祖師堂を寄進建立し、寺域を整備しています。清正が兜をかぶったまま縁の下を通ることができたと伝える祖師堂は現存していません。
総門から仁王門へと続く96段の石段(此経難維持坂)は清正寄進といわれています。
江戸切絵図に見る明治神宮・清正井
■明治神宮の「宮」の正式な表記は「宮」の「呂」の部分に中間の縦線が入らない口がふたつです。技術的表示が困難なため、宮を代用しています。
清正井 | |
名称 | 清正井/きよまさのいど |
所在地 | 東京都渋谷区代々木神園町1-1 |
関連HP | 明治神宮公式ホームページ |
電車・バスで | JR原宿駅から徒歩7分。東京メトロ千代田線明治神宮前駅から徒歩8分 |
ドライブで | 首都高速外苑ランプから約1.7km |
駐車場 | 65台/無料、12月31日〜1月3日は利用不可 |
問い合わせ | 明治神宮社務所 TEL:03-3379-5511/FAX:03-3379-5519 |
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