東京都板橋区栄町にある東京都健康長寿医療センターの敷地内に立つ銅像が、旧養育院長渋沢栄一銅像。渋沢栄一は、身寄りのない子供、生活困窮者などを保護するため、明治5年10月15日に創設された東京養育院の運営に昭和6年に没するまで携わり、50年以上にわたり院長を務めていました。
慈善家としての渋沢栄一を
明治初期の東京では職を失った旧士族、生活困窮者が徘徊し、明治5年にロシア皇子が来日するこが決まると、その人たちを、旧加賀藩邸(現・東京大学)の長屋に収容することになり、それが養育院設立のきっかけとなったのです。
東京養育院は、明治5年、江戸時代に江戸の町民が蓄えた基金「七分積金」(しちぶつみきん)が営繕会議所(後の東京商工会議所)が管理することになったことを受け、明治6年、東京・上野(現・東京芸大)に開設されたのが始まり。
第一国立銀行を設立した渋沢栄一は東京府知事・大久保一翁(おおくぼいちおう)から営繕会議所での七分積金の管理を任されます。
大久保が東京府知事を退任後、「税金で貧しい人を養えば、怠け者をつくる」との声が広がり、明治18年、東京養育院に対して府税の出金が停止されてしまいます。
この時、渋沢栄一は財界から寄付を集め、鹿鳴館でバザーを開いて、運営資金を調達したのです。
さらに渋沢栄一は、東京養育院の公営化を働きかけ、東京市営になったのです。
「富を増すほど社会の助力を受けているわけだから、恩恵に対して救済事業はむしろ当然の義務」と渋沢栄一は考え、大正時代には貧富の差の拡大を懸念。
数多くの企業・組織の役職に就任した渋沢栄一ですが生涯で最も長くその座に就いていたのは、東京養育院の院長。
渋沢栄一の実業家ぶりは夜に知られるところですが、慈善家としての活躍も大きかったのです。
どんなに忙しくとも月1〜2回は来院。
東京養育院を廃止せよという人たちには、「困窮者を助けることは、社会にとって必要な義務である」と強く訴えています。
そんな渋沢栄一の多大なる功績を讃え、大正14年に建立されたのが、渋沢栄一銅像。
除幕式には渋沢栄一本人も出席しています。
銅像は、第二次世界大戦中に、金属供出されることになりましたが、運び出される前に終戦を迎え、その難を逃れています。
東京養育院は本郷の旧加賀藩邸を前身に、上野(現・東京芸大)、神田、本所、明治29年に大塚(現・都立大塚病院)と移転を繰り返しましたが、大正13年に、飛鳥山の渋沢栄一本邸にも近い板橋町(板橋区になるのは昭和7年、大東京市誕生で)に落ち着いたのです。
東京養育院は平成12年に廃止され(平成11年、東京都養育院条例廃止)、事業は都庁の福祉保健局に引き継がれ、養育院の付属施設だ った東京都老人医療センターと東京都老人総合研究所が平成21年に合併し、高齢者のための医療や研究を行なう東京都健康長寿医療センターが誕生しています。
銅像の横に立つ養育院本院の碑の「養育院本院」の字は、渋沢栄一の墨蹟を刻んだもの。
敷地は戦後縮小され、かつて本院事務所があった場所は、現在の板橋区立板橋第一中学校あたり。
つまりは銅像も往時の場所ではありません(現在の板橋区立文化会館と板橋区立板橋第一中学校の間にありました)。
旧養育院長渋沢栄一銅像 | |
名称 | 旧養育院長渋沢栄一銅像/きゅうよういくいんちょうしぶさわえいいちどうぞう |
所在地 | 東京都板橋区栄町35-2 |
関連HP | 板橋区公式ホームページ |
電車・バスで | 東武鉄道大山駅から徒歩5分 |
駐車場 | 周辺の有料駐車場を利用 |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |