東京23区で泳いだ記憶のある人は、かなり少ないはず。東京23区最後の海水浴場は、戦後数年間、「東京のハワイ」の宣伝文句で運営された夢の島海水浴場(江東区)です。残念ながら財政難や台風被害などによって、わずか3年で閉鎖という憂き目にあっています。
「東京のハワイ」の歴史は、「夢の島熱帯植物館」が引き継ぐ

ゴミを埋め立てて造った人工島というイメージの夢の島。
当初の夢の島計画は、ゴミの島ではなく、昭和初期の「東京港修築事業計画」によって。
関東大震災で近代的な港湾の必要性が痛感され、現在、伊豆諸島(東海汽船)や小笠原(小笠原海運)への貨客船、隅田川と結ぶ水上バスが発着する竹芝埠頭(昭和9年)、芝浦ふ頭(昭和7年)が整備されていますが、同時に、港内を浚渫し、大型船が接岸できるように改修工事が進んでいます。
実は東京港の開港は意外に新しく、昭和16年のこと。
取り除いた土砂を使って埋め立て地を造成したのですが、それが夢の島だったのです。
完成後は、「東京市飛行場」を建設する計画で、251ha、滑走路3本の飛行場と決まっていたのです(当時の羽田空港は53haで、滑走路も1本)。
当時世界最大級といわれたドイツのベルリン・テンペルホーフ空港(Flughafen Berlin-Tempelhof/大正12年開港)が140haだったので、当時としてはいかに巨大な飛行場をつくろうとしていたのかがよくわかります。
しかも港にあるので、水陸両用の飛行場を想定していました。
昭和14年7月に起工式が行なわれ、空港建設が始まりますが、日中戦争勃発で資材の供給もままならなくなり、完成予定の昭和16年には未完成。
戦争の激化でついに工事は中止に。
戦後、GHQ(連合国軍総司令部)は、周囲の拡張性を考慮して羽田空港を整備することを決定。
「東京駅に近い広大な国際空港」は幻の飛行場となったのです。
江東区南砂町地先と呼ばれていた飛行場の予定地に昭和22年に誕生したのが、浜辺にヤシの木が植栽された夢の島海水浴場。
戦後のなにもない時代ですが、夏場だけ渡船で渡る「東京のハワイ」は好評を博したと伝えられています。
3年で海水浴場は閉鎖され、しばらく放置されていた埋立地は、昭和32年、ゴミの処分場に決まり、海水浴場だったのどかな海岸にはゴミを運ぶダンプカーが行き交うようになったのです。
こうして誕生したゴミの島は、今では「海にぽっかりグリーンランド」夢の島公園に変身しています。
「東京のハワイ」の歴史は、トロピカルフルーツ茂る「夢の島熱帯植物館」に引き継がれているのかもしれませんが、ゴミの島の下には、かつての海水浴場が眠っています。

東京にあった「最後の海水浴場」は、夢の島海水浴場 | |
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