国土地理院の地形図を見てみると、JR信濃町駅西側、国立競技場の北東側を走る中央線快速・総武線の線路に、謎の側線が描かれています。側線の先は、首都高速4号新宿線の高架下。実はここに戦前、青山練兵場駅があった地。国立競技場、神宮球場一帯は、戦前は青山練兵場だった場所で、そのための駅があったのです。
大陸への出征兵士を乗せた列車も出発

江戸時代には青山という地名の由来となる郡上藩主・青山家、篠山藩主・青山家の広大な屋敷地(現・青山通りを挟んで北が篠山藩主青山家、南が郡上藩主・青山家)で、東京メトロ・外苑前駅近くにある梅窓院は、郡上藩主・青山家の菩提寺です。
その郡上藩主・青山家の屋敷地などの跡地に、明治19年、日比谷練兵場(現・日比谷公園)から練兵場を移転し、青山練兵場が誕生。
北側の慶応大学病院の建つ場所は、陸軍第一師団輜重兵営(りくぐんだいいちしだんしちょうへいえい)がありました(大正9年に慶応大学に敷地を売却)。
大番町跨線橋(大番町通跨線道路橋)は、陸軍第一師団輜重兵営と青山練兵場を結んだ跨線橋(中央線をまたぐ道路橋)のひとつ(3ヶ所あった跨線橋のうち、唯一現存)。
明治後期になると青山練兵場が手狭になったため、陸軍は明治42年、新たに代々木練兵場(現・代々木公園)を設けています。
青山練兵場では、大正元年9月13日には明治天皇の大喪儀が行なわれて、葬場殿は現在は聖徳記念絵画館として使われています。
青山練兵場への兵士や物資の輸送に活躍したのが青山練兵場駅。
千駄ヶ谷駅近くで中央線を離れて側線に入り、信濃町駅の西の青山練兵場駅へと通じていました。
明治天皇の大喪儀の際も、「霊柩列車」がここから出発し、中央線、山手線、東海道本線を経由して、京都・伏見桃山陵そばの仮停車場へと向かっています。
兵士が大陸へと派遣される際には、その玄関港となったのは、遥か遠くの広島・宇品港。
そのため青山練兵場駅を出た軍用列車は、遠く宇品駅を目指したのです。
現在、地形図に記載され、現地に残る側線は、分岐する場所が信濃町駅に寄りすぎで往時の側線とは異なるという考え方もありますが、では何のための側線なのかは大いに謎。
青山練兵場駅の跡は、首都高速4号新宿線の高架下の草原となり、往時を偲ぶ遺構は残されていません。

| 【地図を旅する】 国立競技場横に「青山練兵場駅」跡が! | |
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