東京都台東区、上野恩賜公園の西郷隆盛像の北側にあるのが、彰義隊の墓(しょうぎたいのはか)。慶応4年5月15日(1868年7月4日)、寛永寺に立て籠もる幕府方・彰義隊は、新政府軍の猛攻を受け、壊滅。ほぼ全滅となった彰義隊の隊士を荼毘にした場所に、墓碑を建立したのが彰義隊の墓です。
彰義隊の戦死者を火葬した地に、明治14年墓碑を建立
大政奉還後、最後の将軍となる15代・徳川慶喜は、上野の寛永寺に隠棲。
当時、現在の上野恩賜公園一帯は、全山が寛永寺の境内でした。
これは、徳川家康、秀忠、家光の3代に仕えた天海僧正が、不忍池を琵琶湖に見立て、比叡山延暦寺を模して、東叡山寛永寺を創建したから。
江戸城の北東、つまりは鬼門封じの地でもあり、幕府方にとってはまさに聖地だったのです。
江戸城の無血開城が、勝海舟と西郷隆盛の交渉で決まり、徳川慶喜は寛永寺から水戸に退去しますが、海軍副総裁の榎本武揚の艦隊は北に向けて脱走、一橋徳川家家臣の渋沢成一郎、天野八郎は幕臣を集めて彰義隊を結成、寛永寺に立て籠もります。
現在の東大あたりから大砲を打ち込み、さらに大村益次郎率いる新政府軍が上野の山に火を放ち正面突破、彰義隊はわずか1日で壊滅したのです。
もっとも激戦となったのが、彰義隊の墓のある一帯。
彰義隊の200体以上の死体が放置されていましたが、新政府軍は見せしめのため、遺体の収容を認めませんでした。
三ノ輪にある円通寺(現・荒川区南千住)の住職・仏磨は、これを見かねて、遺体を集めて荼毘(だび)に伏し、遺骨を円通寺に埋葬。
火葬した場所に明治7年、彰義隊の生き残り・小川椙太(おがわすぎた=小川興郷)たちが明治政府の許可を得て、私財を使って明治14年に建立したのが、彰義隊の墓。
高さ757.5cmという大きなもので、碑銘、「戦死之墓」。
「戦死之墓」の銘は、江戸城無血開城の最初の会談を行なった山岡鉄舟の書ですが、彰義隊の名がないのも明治政府への配慮と推測できます。
それでも巨大な墓碑を建立したのは、政府許可の大きな墓碑を建てることで、彰義隊に着せられた「朝敵」の汚名を拭い去ろうとしたため。
その下に小さく目立たないように立つのが、「彰義隊戦死之墓」と刻む小碑(高さ71.5cm)。
明治2年、寛永寺寒松院と護国院の住職が、この地に埋納したものです。
正面の「沙門松国」(しゃもんしょうこく)とある銘文は、両院の1字ずつをとったもの。
巨大な墓碑を建立した小川椙太は、上野戦争で捕縛されましたが、明治2年に赦免。
すでに新政府が安定した政権運営を行なっていたことがわかります。
山岡鉄太郎から「警視総監くらいにはなれるから政府に仕官しないか」と誘われますが、それを断り、終生、この墓守をしたのです。
平和な光景で文化施設も多い上野の山に、上野戦争の歴史を伝える貴重な遺構が、こうしてひっそりと残されています。
彰義隊の墓 | |
名称 | 彰義隊の墓/しょうぎたいのはか |
所在地 | 東京都台東区上野公園1 |
関連HP | 台東区公式ホームページ |
電車・バスで | JR上野駅から徒歩5分 |
問い合わせ | 上野恩賜公園管理所 TEL:03-3828-5644/FAX:03-3827-7752 |
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