東京都板橋区、高島平にある都立公園が、赤塚公園。中央地区、辻山地区、徳丸が丘緑地地区、番場地区、沖山地区、大門地区、赤塚城跡のある城址地区に分かれ、首都高速5号池袋線沿いにありながら、高島平IC近くの大門地区にはニリンソウ自生地もあり、豊かな自然が残されています。
大門地区にはニリンソウ自生地、城址地区には赤塚城跡が
赤塚公園のある徳丸ヶ原は、現在でこそ、高島平と呼ばれる住宅地になっていますが、かつては荒川沿いの徳丸たんぼ、赤塚たんぼと称される田園地帯が広がっていました。
江戸時代には天領で徳川将軍家の鷹狩の場にもなっていましたが、幕末の天保12年(1841年)に高島秋帆が、徳丸ヶ原で日本で最初の洋式砲術の実弾射撃と歩騎兵の公開演習を行ない、後に高島平という地名が生まれたのです(こども動物園高島平分園のある徳丸ヶ原公園内に石碑が立っています)。
赤塚公園の東西に伸びる丘陵地には、ムクノキ、アカメガシワ、エノキ、イヌシデ、シロダモ、エゴノキ、ヌルデなどが茂り、鷹狩場だった時代を偲ばせてくれます。
大門地区にはニリンソウ自生地は、武蔵野台地の崖線に沿って幅10m〜20m、東西200mにわたって保護されています。
ニリンソウは桜の終わる頃、4月上旬に開花します(ニリンソウは板橋区の「区の花」にもなっています)。
大門地区は森も残され、野鳥の保護区にも指定。
公園の西端に位置する城址地区は、豊島氏の居城である石神井城を攻め落とした千葉自胤(ちばよりたね)の居城、赤塚城の城跡で、康正2年(1456年)、下総千葉氏の内紛(市川合戦)に敗れた後、市川城(現・千葉県市川市)から居城を太田道灌の支配下に移して築城したもの。
康正3年(1457年)には扇谷上杉家の家宰・太田道灌が江戸城を築城、千葉自胤は太田道灌の力を借りて下総への帰還を願って千葉氏の再興を図っています。
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