セメント工業発祥の地碑

セメント工業発祥の地碑

東京都江東区清澄1丁目に立つのが、セメント工業発祥の地碑。仙台藩蔵屋敷跡を利用し、明治5年、大蔵省土木寮の摂綿篤(セメント)製造所を東京府下清住町に建設、明治7年に工部省の深川製作寮出張所に改められ、明治8年5月19日、技師・宇都宮三郎が本格的なセメントの製造に成功しています。

宇都宮三郎が本格的なセメントの製造に成功した地

セメントは幕末から明治時代初めにわずかながら輸入されていますが(横須賀製鉄所、野島埼灯台、城ヶ島灯台などに利用)、あまりに高価なため、国産化の気運が高まりますが、満足なセメントを生み出すことができませんでした。
そのため、明治5年に官営の工場を設立したのです。

明治5年に工部省の技師となった宇都宮三郎(江戸時代は尾張藩士で、尾張藩邸内に砲台を築き、着発弾の開発を担当、明治維新後、開成学校教官に)は、隅田川、仙台堀などの河底泥土を原料の一部に使い、湿式焼成法を用いて試行錯誤の末、外国品と遜色のない国産のセメントを生み出しました。

現在のセメントは、山で採掘した石灰石と粘土類を粉砕し、1400度で焼成し、誕生したクリンカー(焼塊)を再度粉砕して製造していますが、明治時代に官営工場が採用したのは、湿式焼成法。
消石灰と周辺の隅田川の河底泥土を原料に、撹擾池と呼ばれる池中で6:4の割合で混合、水を加えて攪拌し、微粒の混じった泥水を沈殿池に送って沈殿させ、スラリー(沈殿した泥)を乾燥させ、レンガ造りの徳利窯で焼成して、ようやくクリンカー(焼塊)が生み出されるという、手間隙かかる方法です。

明治10年、深川工作分局と改称し、工場を拡張。
明治16年、創業者のひとりである浅野組・浅野総一郎が払い下げを受け、浅野工場として稼働し、明治31年には浅野セメント合資会社を設立、その本社工場にもなり、明治36年に日本最初の回転窯(原料粉末をそのまま焼成可能)が設置され、増産が可能になっています。
つまりは浅野財閥(浅野組)の財閥形成の歴史を伝える場所ということに。
浅野組(昭和22年から日本セメント)は、太平洋セメントの前身です。

ちなみに明治3年、殖産興業を目的に設立した工部省は、明治18年に廃止されるまでに、セメント製造のほか造船、灯台、電信、電話、製鉄、機械、ガラス、レンガ製造、製紙、印刷、鉱山開発など広範な分野で日本の近代化に大きな足跡を残しています。

セメント工業発祥の地碑
名称 セメント工業発祥の地碑/せめんとこうぎょうはっしょうのちひ
所在地 東京都江東区清澄1-2-8地先
関連HP 江東区公式ホームページ
電車・バスで 東京メトロ・都営地下鉄清澄白河駅から徒歩10分
ドライブで 首都高速清洲橋出口から約1km
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 江東区文化観光課 TEL:03-3647-9819/FAX:03-3647-8470
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
セメント工業発祥の地碑

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