板橋宿・板橋

板橋宿・板橋

東京都板橋区、かつての中山道板橋宿を横切る石神井川に架る橋が、板橋。地名の由来にもなった橋で、平安時代にはすでにあったものとされる歴史ある橋。現在の橋は、石神井川の河川改修後の昭和47年の架橋(かつての蛇行部分が石神井川緑道)。板橋周辺の石神井川は桜の名所としても有名です。

宿場名、区名の由来にもなった石神井川に架る橋

板橋宿は、五街道のひとつとして整備された中山道、日本橋から数えて最初の宿場町として設置され、東海道の品川宿(品川区)、奥州街道・日光街道の千住宿(足立区)、甲州街道の内藤新宿(新宿区)とともに、江戸の出入口に位置する「江戸四宿」(えどししゅく)のひとつ。

板橋宿は延長15町49間(1.7km)という大宿で、日本橋側から平尾宿(現・板橋1丁目)、仲宿(現・仲宿)、上宿(現・本町)で形成され、板橋は本陣、脇本陣の置かれた仲宿と京寄り(北側)の上宿の間に架かっています。
近代では明治初年に架橋されていますが、石神井川の洪水などにより、大正9年(木製からコンクリート製の永久橋に)、昭和7年などにも架け替えられています。
昭和33年9月の狩野川台風(台風22号)で、石神井川は氾濫し、板橋区内の浸水家屋は1万2800戸という大きな被害をもたらしました。
狩野川台風を契機に昭和34年から河川改修が行なわれ、昭和47年の石神井川改修工事の際に、現在の橋に駆け替えられています。

この橋があるため、板橋宿の名が生まれ、明治22年の町村制施行で板橋町、そして昭和7年、東京市へ編入される際に、板橋区が誕生しています。
板橋宿の北には日本橋から3里目の志村一里塚があり、江戸時代の塚が現存しています(2里目の平尾一里塚は消滅/東京都板橋区板橋1丁目、埼京線の踏切近く)。

都市化が進み、板橋宿の本陣、脇本陣は失われて往時の姿はありませんが、縁切榎(えんきりえの都市化が進み、板橋宿の本陣、脇本陣は失われて往時の姿はありませんが(仲町商店街になっています)、縁切榎(えんきりえのき)がそのままの場所に残されています。

板橋宿・板橋
名称 板橋宿・板橋/いたばしじゅく・いたばし
所在地 東京都板橋区本町〜仲宿
関連HP 板橋区公式ホームページ
電車・バスで 都営地下鉄板橋本町駅から徒歩6分
問い合わせ 板橋区くらしと観光課 TEL:03-3579-2251/FAX:03-3579-7616
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
志村一里塚

志村一里塚

慶長9年2月4日(1604年3月4日)、徳川家康が我が子・秀忠に命じて江戸・日本橋を起点とする全国の街道沿いに、1里(4km)毎に築かせたのが一里塚。街道の両側に対になって塚を築きその上に木を植えましたが、板橋区の志村一里塚は、東京都内では

板橋宿・縁切榎

板橋宿・縁切榎

東京都板橋区本町、街道時代の中山道板橋宿にある伝説の榎が、縁切榎(えんきりえのき)。石神井川を渡る板橋の北に続く、仲町商店街の一画にあり、幕末の文久元年(1861年)、皇女和宮が14代将軍・徳川家茂に嫁ぐ際の行列は、縁起が悪いということでわ

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