東京都北区、赤羽の武蔵野台地上にある曹洞宗の寺が、 静勝寺(じょうしょうじ)。戦国時代、江戸城を築城した太田道灌(おおたどうかん)が築いたと伝わる稲付城の城跡。発掘調査で、永禄年間(1558年~1569年)の末から天正10年(1582)頃に普請されたとみられる空壕が見つかっています。
太田道灌築城の城跡に、太田道灌の菩提寺が!
稲付というのは一帯の地名(江戸時代は豊島郡稲付村)で、三方を丘陵に囲まれた天然の要害。
道灌山、飛鳥山方面から北に、京浜東北線に沿って続く武蔵野台地の崖線は、赤羽で荒川にぶつかって西に入りますが、その角に位置するのが静勝寺(稲付城)です。
戦国時代に太田道灌が築城し、太田道灌の死後、孫の太田資高(おおたすけたか)が居城し、後に後北条氏に仕えています。
静勝寺に伝わる貞享4年(1687年)の「静勝寺除地検地絵図」(じょうしょうじよけちけんちえず)にも境内地のほか、城の空壕の遺構が道として描かれています。
太田資高の子、太田康資(おおたやすすけ)は後北条氏の家臣として岩淵郷5ヶ村を所領しましたが、後に上杉氏に寝返り、永禄7年(1564年)、後北条氏と里見氏が対立した国府台合戦(こうのだいかっせん)で敗れて、里見氏を頼って安房に逃げています
稲付城は後北条氏の勢力下となりますが、豊臣秀吉の小田原攻めで北条氏が滅び、徳川家康の江戸入府で廃城に。
寺は、稲付城内に永正元年(1504年)に創建された菩提寺・道灌寺がルーツとされ、明暦元年(1655年)に太田道灌の子孫、太田資宗(おおたすけむね)が堂宇を建立し、太田道灌(法名・香月院殿春苑静勝道灌大居士)の法号にちなんで寺号を自得山静勝寺と改めています。
江戸時代を通じて太田氏の菩提寺として繁栄し、享保20年(1735年)に太田道灌の250回忌、天明5年(1785年)、300回忌、天保6年(1835年)、350回忌が行なわれています。
元禄7年(1694年)には本堂(現在の弁天堂)、正徳5年(1715年)、太田道灌像を祀る道灌堂などが整備されています。
現存する本堂は関東大震災後に再建されたもの。
道灌堂の太田道灌像は、太田道灌は文明18年7月26日(1486年8月25日)没ということから、月命日の毎月26日に御開帳されています。
赤羽の商店街にある亀ヶ池弁財天は、昭和55年に静勝寺弁天堂から弁財天を勧請したもので、明治時代以前には現在の赤羽駅西口に亀ヶ池という池があったことに因んだ名前。
静勝寺弁天堂の弁財天も亀ヶ池から出土したと伝えられています。
静勝寺(稲付城)の下が、湿地や田んぼだったことがよくわかります。
静勝寺(稲付城) | |
名称 | 静勝寺(稲付城)/じょうしょうじ(いなつけじょう) |
所在地 | 東京都北区赤羽西1-21-17 |
関連HP | 北区公式ホームページ |
電車・バスで | JR赤羽駅から徒歩5分 |
問い合わせ | 静勝寺 TEL:03-3900-4455 |
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