941(天慶4)年、鎮守府将軍・俵藤太秀郷朝臣が、旧社地(現在の早稲田大学9号館法商研究棟)の富塚の上に稲荷大神を勧請したのが創始という古社、水稲荷神社。元禄15(1702年)、大椋(おおむく)の木の下に霊水が湧出し、眼病に効能があったことからたちまち評判となり、水稲荷と呼ばれるようになりました。
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江戸時代までは、現在の早稲田大学の構内に位置し、宝泉寺が別当寺となっていました。
現在の早稲田大学キャンパスの大部分は、明治初年の廃仏毀釈まで実は宝泉寺の寺領だったのです。
昭和38年、早稲田大学と土地交換を行ない、徳川御三卿の一つ・清水家の下屋敷の大名庭園である甘泉園公園橫に遷座しています。
境内にある「高田富士」(戸塚富士、富塚富士とも)ももともとは早稲田大学構内にあったものを、昭和38年の拡張工事の際に移築したもの。
つまり、神社の旧社地も「高田富士」も現在の早稲田大学構内にあったことから、早稲田ゆかりの社でもあり、神社でも「早稲田水稲荷神社」と称しています。
早稲田の守り神というわけで、早稲田大学の合格祈願に訪れる人も数多く、早稲田合格を祈願した学業成就の合格守、祈祷符も授与してくれます。
境内にある「堀部武庸加功績跡碑」は、元禄7年(1694年)2月11日の「高田馬場の決闘」(菅野六郎左衛門らと村上庄左衛門らによる決闘)で、菅野六郎左衛門に助太刀(すけだち)をした堀部武庸(堀部安兵衛)を顕彰したもの。
現在の新宿区西早稲田3丁目、西北診療所のあたりで決闘は行なわれています。
明治43年にかつて仇討ちが行なわれた高田馬場跡(現・茶屋町通り)に立てられたものを、昭和46年に水稲荷境内に移設したもの。
堀部武庸(堀部安兵衛)は、吉良邸へと討ち入りした赤穂四十七士のひとりで、吉良義央邸襲撃を主張した中心人物。明治時代には、忠臣的な思想を重んじられる傾向があり、この碑が建立されています。
江戸切絵図に見る 水稲荷神社の新旧社地
早稲田大学の現在のキャンパスが江戸時代には水稲荷神社の別当だった宝泉寺の境内だったことがわかります。
水稲荷神社 | |
名称 | 水稲荷神社/みずいなりじんじゃ mizuinari Jinja Shrine |
所在地 | 東京都新宿区西早稲田3-5-43 |
関連HP | 水稲荷神社公式ホームページ |
電車・バスで | 東京メトロ東西線早稲田駅から徒歩10分。または、都電荒川線面影橋から徒歩3分 |
駐車場 | なし/周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 水稲荷神社 TEL:03-3200-4621/FAX:03-6690-2723 |
掲載の内容は取材時のものです、最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |