東京都台東区上野桜木1丁目にある天台宗関東総本山が寛永寺。徳川家康、秀忠、家光と徳川3代将軍に仕えた天海僧正が寛永2年(1625年)に創建。比叡山に対し、東叡山という山号で、当時上野の山一帯が寛永寺の寺地でした。寺下の下谷側が坂本(下谷坂本)という名だったのも比叡山を模してのこと。
江戸時代には権勢を有した伽藍も、幕末に上野戦争で焼失

徳川幕府が国家安泰と鎮護を祈る聖地として江戸城の鬼門(東北)にあたる上野の台地に建立した徳川家の菩提寺で、比叡山延暦寺に対して東叡山という山号。
江戸時代には山主が寛永寺、延暦寺、日光山万願寺(現・輪王寺)の山主を兼任したほどの権勢を有していました。
現在の上野恩賜公園は不忍池を含みすべてが寛永寺の境内地だったばかりでなく、往時にはその約2倍もの広さの境内を保有。
壮大な規模と華麗さを誇っていました。
鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が新政府軍に敗れると、徳川慶喜は大坂城を脱出して江戸の上野寛永寺大滋院にて謹慎、江戸城の無血開城が実現しますが、旧幕府方の彰義隊は徹底抗戦を主張し、上野の山に籠もります(徳川慶喜は水戸へ)。
慶応4年5月15日(1868年7月4日)、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の上野の山の戦い(上野戦争)で、寛永寺境内は激戦地に。
長州藩の大村益次郎が指揮する新政府軍は、加賀藩上屋敷(現・東京大学構内)から砲撃。
薩摩藩・西郷隆盛が指揮する部隊は黒門口から侵入すると、彰義隊は寛永寺本堂へ退却、結果壊滅となりました。
寛永寺は根本中堂など主要な伽藍を焼失、壊滅的な打撃を受け、明治維新後、大部分の境内地が上野恩賜公園となったのです。
現在の根本中堂は川越喜多院を解体し移築

現在の寛永寺は、護国院大黒天(谷中七福神)など子院19院を有する巨刹。
往時の根本中堂は、今の上野恩賜公園の大噴水あたりにありましたが、公園化した際に現在地に移転しています。
現在の根本中堂は川越喜多院を解体し、子院の大慈院に移築し再建したもの。
本尊は、伝教大師(最澄)自刻とされる薬師瑠璃光如来像(秘仏)で国の重要文化財。
寛永寺本坊跡に建つ東京国立博物館の裏手に徳川家霊廟があり、徳川将軍15人のうち6人(家綱、綱吉、吉宗、家治、家斉、家定)が眠っています。
少し離れた寛永寺の墓地に徳川慶喜の墓がありますが、そのほかの将軍は芝・増上寺が墓所です。
清水寺を模した舞台造りの清水観音堂、旧本坊表門、厳有院霊廟、常憲院霊廟、旧寛永寺五重塔は国の重要文化財。
寛文6年(1666年)に設けられた時鐘堂は現在も6:00、正午と18:00の計3回、時を告げています。
上野恩賜公園を訪ねる際には、広大な寺地を誇った江戸時代の寛永寺にも、ぜひ思いを馳せてください。
大仏パゴダ(上野大仏)など思わぬ発見、見どころもあります。

寛永寺 | |
名称 | 寛永寺/かんえいじ |
所在地 | 東京都台東区上野桜木1-14-11 |
関連HP | 寛永寺公式ホームページ |
電車・バスで | JR上野駅から徒歩15分 |
ドライブで | 首都高速上野ランプから約1km |
駐車場 | なし/周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 寛永寺 TEL:03-3821-1259 |
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