「遠山の金さん」は実在した! ゆかりの地が東京に!

時代劇『遠山の金さん』、『江戸を斬る』の主人公、「遠山の金さん」。法名は遠山景元(とおやまかげもと)で通称が遠山金四郎・「遠山の金さん」。ドラマは史実と異なるものの、北町奉行と南町奉行を歴任したのは「遠山の金さん」だけ。身体に彫り物があったという裏付けもありませんが、名奉行だったことは事実のようです。

北町奉行所

場所:東京都千代田区丸の内1-8
内容:天保11年(1840年)、北町奉行に就任、その勤務地が北町奉行所。
天保12年(1841年)に始まった老中・水野忠邦(みずのただくに)の天保の改革には、町人の生活と利益を脅かす部分があるとして抵抗を試みています。
そのため水野忠邦や目付・鳥居耀蔵(とりいようぞう=水野の三羽烏)と対立、遠山金四郎に味方していた南町奉行所・矢部定謙(やべさだのり)は罷免されています。
寄席の営業停止、削減も頑強に抵抗したことなどが、江戸庶民の評価を高くしたのだと推測できます。
それでもついに、天保14年(1843年)、鳥居耀蔵の策略で罷免になり、形式的には出世という大目付に就任しましたが、閑職となったのです。

北町奉行所跡

北町奉行所跡

東京都千代田区丸の内1丁目、東京駅日本橋口から徒歩3分ほどの丸の内トラストタワーN館前にあるのが、北町奉行所跡。「遠山の金さん」(遠山左衛門尉景元)も、3年間奉行職を務めたという場所で、調査で奉行所の上水道、井戸が発掘されています。江戸城・

南町奉行所

場所:東京都千代田区有楽町2-9-18
内容:天保の改革の失敗で水野忠邦が罷免されると、鳥居耀蔵はすかさず反対派に寝返りましたが、水野の報復で鳥居も失脚。
こうして遠山金四郎は弘化2年(1845年)、南町奉行に就任。
株仲間再興令、寄席の復活などに尽力しています。

南町奉行所跡

南町奉行所跡

東京都千代田区有楽町2丁目、有楽町駅から徒歩1分の中央口前広場にあるのが、南町奉行所跡。大岡忠相(おおおかただすけ)、そして南北の奉行職を唯一務めた幕末の名奉行「遠山の金さん」こと遠山景元(とおやまかげもと)が務めていた場所です。数寄屋橋御

遠山金四郎屋敷

場所:東京都墨田区菊川3-16-13
内容:晩年の弘化3年(1846年)、屋敷替えで、本所三之橋通に暮らすようになります。
その屋敷は、「鬼の平蔵」こと長谷川平蔵も暮らした場所で、平蔵の孫の代に遠山金四郎がここに移り住み、暮らしたことに。
この屋敷で50歳という生涯を閉じています。

長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡

長谷川平蔵・遠山金四郎屋敷跡

池波正太郎原作『鬼平犯科帳』の主人公・長谷川平蔵、そして『遠山の金さん』、『江戸を斬る』でおなじみの遠山金四郎(遠山景元)。テレビや映画でも人気の題材ですが、実はふたりとも実在の人物で、偶然にも同じ屋敷に時を前後して暮らしたことがあるのです

遠山金四郎の墓

場所:東京都豊島区巣鴨5-35−6
内容:北町奉行、南町奉行という両奉行を務めた唯一の旗本である遠山金四郎は、安政2年2月29日(1855年4月15日)、自邸で没。
当時、本郷丸山にあった本妙寺に埋葬されています。
その本妙寺は、明治41年に遠山金四郎屋敷のあった地近くに移転。

本妙寺・遠山景元の墓

本妙寺・遠山景元の墓

東京都豊島区巣鴨5丁目、染井霊園西側にある法華宗の東京別院が、本妙寺。境内には「遠山の金さん」として知られる遠山景元の墓があり、東京都の旧跡に指定されています。遠山景元は、北町奉行、南町奉行という両奉行を務めた唯一の旗本で、安政2年2月29

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