東京23区内で、三角点のあるピークで「23区最高峰」といえるのは、東京都港区愛宕1丁目にある愛宕山。愛宕山は、愛宕神社境内地で、拝殿近くに25.7mの三等三角点があります。出世の石段として知られる男坂の階段を上ると山頂で、自然峰としても東京の最高峰です(ただし最高点は練馬区にあります)。
明治5年に工部省が三角点を設置
以前は江戸城の堀を掘削した際、出た残土を盛ったという説もありましたが、地質調査の結果、関東ローム層で形成された天然の山であることが判明しています。
武蔵野台地の最東縁に位置する台地突端部のピークで、東に東京沖積地、北は溜池の谷が、西に溜池の谷に注ぐ支谷(しこく)があって、岬のような自然地形になっています。
温暖な縄文時代、海面が現在よりも高かった縄文海進時には古東京湾の岬だった場所で、武蔵野台地の崖下は、海進時に波によって平坦な地形がつくられ、薄い沖積層に覆われた埋没波食台(海食台)ということに。
溜池の谷は古東京湾の入江だった場所で、現在の男坂の石段下あたりには波が打ち寄せていたのだと推測できます。
愛宕山の三等三角点は『点の記』によれば、「旧内務省測点ヲ代用シ」明治35年の設置。
内務省の測点は、明治5年にその前身の工部省が神社の池の中に設置したものです。
内務省大三角測量を開始するのは明治8年のことなので、いち早く愛宕山を測量していることがわかります。
明治4年に工部省測量司を設置、明治5年3月、土地測量を目的に、ドイツ・カールバンベルヒ社製の経緯儀(けいいぎ)を使って東京府下の三角測量を開始していますが、このときに設置された測点(三角点)は、江戸城・富士見櫓(第一点)、越中島、洲崎弁天、本所一つ目、本所三つ目、芝愛宕山、上野下寺町、目白台、白金台町、寺島村、 田端村など計13点です。
遠くが見通せて、他の2点からからもよく見え、さらに転落などの危険がない、安全に測量できる場所が選ばれたわけで、「自然峰」としてはこの愛宕山が唯一です。
江戸時代には海を眺める景勝地だった愛宕山
愛宕神社の男坂がなぜ「出世の石段」と呼ばれるのかは、江戸時代初期の武勇伝から。
江戸時代、愛宕山には家康が信奉した軍神としての愛宕権現(あたごごんげん/明治の神仏分離後に愛宕神社)を創建。
寛永11年1月28日(1634年2月25日)、3代将軍・徳川家光が、徳川秀忠の三回忌に増上寺を参拝した帰途、山上にある梅が咲いているのを眺め、「梅の枝を馬で取ってくる者はいないか」と問いかけた際、同行していた讃岐・高松藩主・生駒高俊(いこまたかとし)の家臣・曲垣平九郎(まがきへいくろう)が、石段を馬で駆け上り、見事に梅の花を取ってきたからと伝えられています。
その後もチャレンジした武士はいて、出世の石段を馬で登った成功例は3例が記録されています。
三角点も置かれたという地形的なメリットは、ラジオ放送の創始の際にも注目され、大正14年7月、ラジオ放送(NHKの前身、東京放送局)は、この愛宕山から本放送が始まっています。
東京放送局が築かれる前は、明治22年完成の宿泊施設の「愛宕館」、展望塔の「愛宕塔」が建っていましたが、大正12年9月1日の関東大震災で崩壊、跡地に東京放送局・JOAKの局舎が建設されたのです。
「愛宕館」、「愛宕塔」が建てられたのは、江戸時代から江戸湾を眺める景勝地だったから。
『鉄道唱歌』(明治33年)の1番の歌詞にも「汽笛一声新橋を はや我汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として」とすでに「愛宕塔」が観光名所となっていた愛宕山が読み込まれています。
三角点のあるピークで23区最高峰は、愛宕山 | |
所在地 | 東京都港区愛宕1-5-3 |
場所 | 愛宕山 |
電車・バスで | 東京メトロ日比谷線神谷町駅から徒歩8分、都営三田線御成門駅から徒歩10分 |
ドライブで | 首都高速芝公園ランプから約1.6km |
駐車場 | なし |
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。 |