牛込見附跡

牛込見附

東京都千代田区、JR飯田橋駅横にあるのが、牛込見附跡(うしごめみつけあと)。江戸城三十六見附の遺構のひとつで、外濠に臨んで築かれた江戸城外郭門。田安門から神楽坂、高田馬場を通り、上州とを結ぶ上州道の関門(江戸六口のひとつ)という位置づけです。飯田橋駅の駅舎横に石垣のみ現存しています。

江戸六口のひとつで、上州道へとつながる関門

牛込見附
JR飯田橋駅横に現存する土塁

蜂須賀忠英(はちすかただてる=蜂須賀小六のひ孫)が江戸城外濠が完成した寛永13年(1636年)に築いた石垣と門で、外濠の内側は武家地、外側は町人地という境界に位置していました。
ただし、神楽坂には寛永5年(1628年)に3代将軍・徳川家光から大老・酒井忠勝が拝領した酒井家江戸牛込下屋敷(若狭小浜藩江戸下屋敷=矢来屋敷)もあり、神楽坂一帯の道などを酒井忠勝が整備しています。
酒井家江戸牛込下屋敷は、将軍・家光御成りのため、御成門、御殿を整備していますが、実際に100回ほどの御成りがあったといい、その際に将軍が城を出たのも田安門、牛込見附ということになります。
神楽坂には旗本、旗本の家臣なども暮らしていたので、その登城路途中の門としても機能していました。

牛込見附の石垣は、江戸三十六見附の中でも最もよく往時の形を残したもので、解体調査の際には普請した蜂須賀忠英を指す「松平阿波守」の刻印も角石から見つかっています。

「楓の御門」と呼ばれ、往時には紅葉が見事だったとか。
牛込見附前の外濠(飯田濠)までは、江戸湾から隅田川、神田川を経由して荷船が入ることができ、神楽坂側の岸に神楽河岸(かぐらかし)、武家のための揚場河岸が造られていました(揚場町という町名が残されています)。
神楽坂に並行する坂道(裏道)を軽子坂と呼びますが、軽子は荷を運び上げた人足のこと。
つまり、この坂道を使って荷を担ぎ上げたのです。

牛込見附の下には、「牛込どんどん」と称される堰があり、濠の水が滝のように落ちていたため、この先には船が上ることができませんでした。

歴史ある牛込見附(牛込御門)も、明治維新でお役御免となり、明治5年に道路上の渡櫓門など、枡形門全体を撤去。
明治35年に石垣の大部分は破却されていますが、そのごく一部が現存し、外郭門の歴史を今に伝えています。

牛込見附
歌川広重『どんどんノ図 牛込揚場丁』

江戸城外郭門が「見附」と呼ばれた理由は!?

江戸城の外郭門は36ヶ所築かれ、江戸城三十六見附と称されていました。
見附とは、敵の侵入を見つけるという意で、堅牢な枡形門を配していました。
見附とは、本来は、城門番兵の見張所のことですが、転じて城門を呼ぶように。
侵入者を見つけるぞという姿勢を、その言葉でも示したのかもしれません。

牛込見附(牛込御門)の警備には、鉄砲5挺、持筒2挺、弓3張、長柄の槍5、持弓1組を常備。
しかも3000石以上の上級旗本(領地に陣屋を設置することが許された旗本)が3年交代で勤番、番士3名は羽織袴姿で勤務という凛々(りり)しいものでした。
そこからも牛込見附の重要性がよくわかります。

牛込見附
牛込見附
牛込見附跡
名称 牛込見附跡/うしごめみつけあと
所在地 東京都千代田区富士見2-9
電車・バスで JR・東京メトロ・都営地下鉄飯田橋駅から徒歩3分
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牛込見附

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