東京都港区高輪2丁目にある石垣の遺構が、高輪大木戸跡。元和2年(1616年)、東海道・江戸の玄関口として現在地よりも北側700mほどの場所に芝口門が築かれたのが始まりで、宝永7年(1710年)、現在地に移転し、高輪大木戸に。東海道の両側を石垣で固めた土塁を築き、柵と門を構えました。
数々の浮世絵にも描かれた東都名所


石垣は、長さ5間(9m) 、幅4間(7.2m) 、高さ1丈(3m)という大きなもので、東側に間近に江戸湾(東京湾)が広がっていました。
東海道を京に向かって旅立つ人をここまで見送りに来ることもあり、また、一帯は海岸の風景が美しく、月の名所でもあったため、賑やかだったことが推測できます。
浮世絵の題材としても好まれ、歌川広重『東都司馬八景 高輪帰帆』、歌川広重『東都名所 高輪之図』、昇亭北寿『東都品川宿高輪大木戸』、歌川国貞『東都名所 高輪廿六夜』、歌川広重(3代)『東京名勝 高輪ノ真景』など多くの錦絵が残されています。
まさにここまでが江戸で、伊能忠敬(いのうただたか)も日本全土を測量する際に、ここを基点としています。
ここに大木戸を設けたのは江戸市中の治安維持のため。
明け六ツ(日の出前の薄明かりの時間帯)に開き、暮れ六ツ(日没時刻)に閉じて、東海道の夜間の往来を防いでいました。
交通の要衝でもあったので高札場も置かれましたが、日本橋南詰、常盤橋外、浅草橋内、筋違門内、半蔵門外とともに江戸の六大高札場のひとつに数えられています。
明治元年、明治新政府は、馬車や人力車を走らせるため、道路の拡張を目的に西側の石垣を撤去しましたが、海側の石垣はそのまま残したため、それが現存。
現在では西側にJR線も通り、その先には芝浦ふ頭もありますが、明治初年まではこの高輪大木戸跡は海岸線に。
新橋と横浜を結んだ鉄道も海に堤(高輪築堤)を設けて通しているのです。
江戸の大木戸は東海道の高輪大木戸のほか、甲州街道の四谷大木戸があり、ともに現存しています。


ここまでが江戸! 高輪大木戸跡 | |
名称 | 高輪大木戸跡/たかなわおおきどあと |
所在地 | 東京都港区高輪2-19 |
関連HP | 港区観光協会公式ホームページ |
電車・バスで | 都営地下鉄泉岳寺駅から徒歩すぐ |
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