赤塚諏訪神社富士塚

赤塚諏訪神社富士塚

東京都板橋区大門、赤塚諏訪神社社殿から南西に100mほどのところ、国道17号の脇にあるのが赤塚諏訪神社富士塚。江戸時代に富士講のひとつ丸吉講(まるきちこう)によって築かれたもので、現在の板橋区周辺の富士講の隆盛を今に伝える貴重な遺構です。

板橋区に現存する貴重な富士塚

江戸時代中期〜明治時代にかけて、江戸八百八町それぞれに、富士講の講中が組織され、江戸八百八講と呼ばれるほどに隆盛していました。
板橋も、練馬、田無、府中へと抜ける大山街道(ふじ大山道)が通り、丹沢・大山と富士山を両参りする人たちにとって地の利のいい場所だったのです。

毎年、富士山に登拝をすることが叶わない庶民は、講を組織し、その代表が富士に登拝するのとともに、地元に富士山を真似た富士塚を築き、富士山に登拝するのと同じご利益があると喧伝(けんでん)し、同じ7月1日に山開きを行なっていました。

志木市敷島神社の境内にある「田子山富士」に明治5年に奉納された「丸吉講新富士百三十三所奉納額」に、「下赤塚仙元富士山」と記されることから、明治5年以前の築山だということが判明しています。

板橋区赤塚の氷川神社境内の富士塚を上赤塚富士、赤塚諏訪神社の富士塚を下赤塚富士と通称しています。

氷川神社富士塚を築いた丸吉講は、新座郡片山村(現・埼玉県新座市)の浅海吉右衛門(あさうみきちうえもん/行名・蓉行芙厚)が天保2年(1831年)に開いた富士講の講中で、わずか2年足らずで入間郡、多摩郡、豊島郡、新座郡の4郡に加入戸数4000軒の信者を集め、その勢いで、明治の神仏分離の荒波を乗り越え、都内にも赤塚諏訪神社富士塚、板橋区赤塚4丁目の赤塚氷川神社境内にある上赤塚富士、練馬区の氷川神社富士塚、下練馬の富士塚、中里の富士塚(大泉富士)を残しています。

板橋区氷川町の氷川神社境内には板橋富士と通称される富士塚があり、中山道・板橋宿平尾の永田長四郎を中心とした講中が築いた塚です。
板橋区の蓮根氷川神社にも富士塚らしき塚がありますが、こちらは板橋で隆盛した御嶽講の御嶽塚です。

赤塚諏訪神社富士塚近くには、富士講、大山講の講中が、出発前に身を清めた水垢離(みずごり)の場だった赤塚不動の滝もあるので、あわせて見学を。

赤塚諏訪神社富士塚
名称 赤塚諏訪神社富士塚/あかつかすわじんじゃふじづか
所在地 東京都板橋区大門5
電車・バスで 都営西高島平駅、東武新高島平駅から徒歩20分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 板橋区産業経済部くらしと観光課 TEL:03-3579-2251/FAX:03-3579-7616
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
中里の富士塚

中里の富士塚

東京都練馬区大泉町の八坂神社脇にある江戸時代の富士山信仰を今に伝える史跡が、中里の富士塚(なかざとのふじづか)。江戸時代中期から明治にかけて富士講が全盛時代を迎え、江戸八百八町それぞれに講中(こうぢゅう)が組織されていました。中里の富士塚は

下練馬・ふじ大山道道標

下練馬・ふじ大山道道標

東京都練馬区、旧川越街道の下を東京都道311号(環状八号線)が通過する部分、旧川越街道路側の園地にあるのが下練馬・ふじ大山道道標。富士講が全盛時代の江戸時代中期〜明治時代、富士山と丹沢・大山の登拝を「両詣り」が盛んに行なわれ、その大山へと

氷川神社富士塚(大松の富士塚)

氷川神社富士塚(大松の富士塚)

東京都練馬区北町8丁目の大松氷川神社(おおまつひかわじんじゃ)境内に築かれている富士塚が氷川神社富士塚(大松の富士塚)。江戸時代中期以降、江戸市中とその周辺には江戸八百八講とよばれるほど富士講の講中が組織されましたが、とくに現在の練馬区は盛

赤塚不動の滝

赤塚不動の滝

東京都板橋区赤塚8丁目、東京大仏(乗蓮寺)の東にあるのが、不動の滝。東京の名湧水57選(東京都環境局選定)にも選ばれる23区内では希少な湧水で、等々力渓谷などの不動の滝と区別化するために、赤塚不動の滝と通称されています。周辺には区立不動の滝

赤塚諏訪神社富士塚

関連記事

よく読まれている記事