江戸城の二の丸と本丸の間を東西に隔てる濠(ほり)が白鳥濠(はくちょうぼり)。南北に長く伸びて本丸を守るかたちになっています。濠の北側は汐見坂で、築城初期にはこの坂から日比谷入江を眺めました。白鳥濠は、完全に独立した濠で、濠に湛える水は湧き水と雨水のみになっています。家康時代に積まれたという石垣も必見です。
家康時代の石垣で見学できるのは唯一ここだけ!
江戸城の本丸と二の丸との段差はなんと10m。その段差を利用して高い石垣を築き、濠と石垣で本丸を守っていました。
二の丸から本丸へと向かうには、白鳥濠横の汐見坂を上がって汐見坂門をくぐるか、梅林坂を上って梅林坂門(上梅林坂門)をくぐる必要がありました。
江戸時代初期、築城当初の江戸城は、本丸と東側の二の丸との間は南北に伸びる濠で完全に仕切られていました。
657(明暦3)年に起きた明暦の大火で、江戸城内は多くの建物を焼失していますが、その後の本丸拡張に伴ってこの南北の濠の大部分は埋め立てられ、白鳥濠だけが残されました。
実は、江戸城内の一般に見学できる場所で、築城当初の石垣が唯一残るのがこの白鳥濠。つまりは徳川家康時代の石垣が見学できるというわけなのです。
乱積み(横方向の石の列が揃っていない積み方)、打ち込みハギ(打ち込み接=石の隙間を少なくし、空いた隙間に間石を入れて強度を高める積み方)という古い技法で築かれた石垣で、コーナー部分は傾斜もゆるく、かつ算木積み(長方形の石の長辺と短辺を交互に重ね合わせる積み方)になっています。
3代将軍・徳川家光が最初に造営した二の丸御殿は、白鳥濠に張り出して能舞台を設置。なんと御殿から能を鑑賞することができるという風流な造りになっていました。
逆にいえば、家光の治世になると「天下泰平」が実現し、江戸城の防御機能を少し緩めることができたと推測できます。
明暦の大火の際に、火災の混乱のさなか、本丸御殿や大奥から金銀財宝を白鳥濠に放り込んだという伝説が残されています。
江戸城内図に見る 白鳥濠
江戸城本丸を取り囲む濠の名前は、白鳥濠に、蓮池濠(れんちほり)。
本来、濠の名は、百間濠、三日月濠という形状や、乾濠(いぬいほり)というような方向を表すことが多いのですが、江戸城本丸御殿横の濠には白鳥濠、蓮池濠という風雅な名前が付いています。
本丸御殿や大奥から眼下にする濠には白鳥が泳ぎ、蓮の花が咲いたのでしょう。
大奥に生まれ育ち、3歳で加賀藩3代藩主・前田利常に輿入(こしい)れした珠姫(たまひめ)は、徳川家康の孫、そして2代将軍・徳川秀忠の娘。
輿入れの際には数百人の家来が帯同、金沢城下に江戸町を形成しました。
当時の金沢城には、江戸城と同じ配置で、白鳥濠、蓮池濠があったので、珠姫輿入れとともに、金沢城に江戸城を再現したと推測されます。
白鳥濠(皇居東御苑) | |
名称 | 白鳥濠(皇居東御苑)/はくちょうぼり(こうきょひがしぎょえん) |
所在地 | 東京都千代田区千代田1-1 |
関連HP | 宮内庁公式ホームページ |
電車・バスで | 東京メトロ竹橋駅から徒歩10分。東京メトロ大手町駅から13分。JR東京駅から徒歩20分 |
駐車場 | なし/北の丸公園第一駐車場(144台・有料)など周辺の有料駐車場を利用 |
問い合わせ | 宮内庁 TEL:03-3213-1111 |
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