植えたゴボウが曲がって発見! 町田市に日本で初めて発掘された「敷石住居跡」が

高ヶ坂石器時代遺跡

東京都町田市にある高ヶ坂石器時代遺跡(国の史跡)は、牢場、稲荷山、八幡平遺跡の3地点からなる縄文時代の集落(ムラ)跡。大正14年、植えたゴボウがなぜか曲がってしまったことで、偶然に発見されたのが、牢場遺跡の「敷石住居跡」。丘陵地における住居跡発見の第1号にもなっています。

町田市は縄文人は住みやすく、弥生人は生活が困難だった!?

高ヶ坂石器時代遺跡
大正14年の「敷石住居跡」発掘当時の姿

町田市に縄文のイメージはあまりないかもしれませんが、町田市には3万年前の旧石器時代から近代までの遺跡が900ヶ所あり、なかでもその数が多いのが縄文遺跡です。

最終氷期は1万1500年ほど前に終わり、温暖な縄文時代に入りますが、町田市内でも日影山遺跡で 20軒以上の竪穴住居跡が発見され、定住が始まり、ムラが誕生したことが確認できます。

温暖化が進んだ6000年ほど前には、現在よりも2度も平均気温が高かったこともあって、海水面も4mほど上昇し、海が内陸部まで到達していました。
これが、縄文海進で、東京湾が横浜市緑区付近まで入り込んでいたため、現在の町田あたりも意外に海に近い場所だったといえるのです。
5500年前から始まる縄文時代の中期が、縄文時代の全盛期で、人口がもっとも多かった時期で遺跡数も増加しています。

町田市内に弥生時代の遺跡が少ないのは、丘陵地が稲作に不向きだったから。
縄文人に最適で、弥生人には不向きな土地が町田というわけです。

本町田遺跡、高ヶ坂石器時代遺跡が二大スポットともいえる場所で、 高ヶ坂石器時代遺跡のひとつで
ある牢場遺跡では、日本で初めて発見された敷石住居跡の実物を見学できます。
稲荷山遺跡では埋め戻した上に石を置いて復元した配石遺構を、縄文時代中末期(約4500年前)の敷石住居跡が発見された八幡平遺跡も原寸大の住居跡を再現、公開されています。

町田市内には縄文時代後期~晩期のストーンサークルの田端環状積石遺構が復元され、「駅からもっとも近いストーンサークル」とPRされています。
また、本町田遺跡には縄文時代、弥生時代の住居が復元されており、見学が可能。

高ヶ坂石器時代遺跡
八幡平遺跡
植えたゴボウが曲がって発見! 町田市に日本で初めて発掘された「敷石住居跡」が
所在地 東京都町田市
電車・バスで JR・小田急電鉄町田駅から徒歩15分
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
高ヶ坂石器時代遺跡

高ヶ坂石器時代遺跡

東京都町田市、鶴見川上流の恩田川沿いの段丘上にある縄文時代の集落跡が、高ヶ坂石器時代遺跡(こうがさかせっきじだいいせき)。牢場遺跡、稲荷山遺跡、八幡平遺跡の3遺跡の総称で、一帯には縄文時代にムラが築かれていたことが判明、牢場遺跡では発掘され

高ヶ坂石器時代遺跡・牢場遺跡

高ヶ坂石器時代遺跡・牢場遺跡

東京都町田市高ヶ坂2丁目、隣接する稲荷山遺跡(縄文時代後期~晩期の配石遺構)、谷を隔てた台地上の八幡平遺跡(縄文時代中期末の敷石住居跡)とともに高ヶ坂石器時代遺跡(国の史跡)を形成するのが、牢場遺跡(ろうばいせき)。大正14年に発見された敷

高ヶ坂石器時代遺跡・八幡平遺跡

高ヶ坂石器時代遺跡・八幡平遺跡

東京都町田市高ヶ坂2丁目、東側を恩田川、西側を芹ヶ谷公園となっている谷に挟まれた標高86mの丘陵の頂部に位置する縄文時代の敷石住居跡遺構が、八幡平遺跡(はちまんだいらいせき)。谷を隔てた牢場遺跡、稲荷山遺跡ととともに国の史跡に指定される高ヶ

高ヶ坂石器時代遺跡・稲荷山遺跡

高ヶ坂石器時代遺跡・稲荷山遺跡

東京都町田市高ヶ坂2丁目、大正14年に楕円形の敷石住居跡が発掘された牢場遺跡(ろうばいせき)の西南27mに位置する縄文時代の遺跡が、稲荷山遺跡(いなりやまいせき)。縄文時代後期~晩期の配石遺構で、牢場遺跡、谷を隔てた八幡平遺跡とともに高ヶ坂

高ヶ坂石器時代遺跡

高ヶ坂石器時代遺跡

東京都町田市、鶴見川上流の恩田川沿いの段丘上にある縄文時代の集落跡が、高ヶ坂石器時代遺跡(こうがさかせっきじだいいせき)。牢場遺跡、稲荷山遺跡、八幡平遺跡の3遺跡の総称で、一帯には縄文時代にムラが築かれていたことが判明、牢場遺跡では発掘され

田端環状積石遺構(ストーンサークル)

田端環状積石遺構(ストーンサークル)

東京都町田市小山町、京王電鉄相模原線・多摩境駅の西、小山内裏公園の南にある縄文時代の遺構が、田端環状積石遺構。縄文時代後期から晩期にかけて築かれたストーンサークル(環状列石)で「日本一駅から近いストーンサークル」とも称されています。都内では

高ヶ坂石器時代遺跡

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