徳川家康に仕えた2代目・服部半蔵(服部正成)と伊賀組は、江戸に徳川幕府が開かれた後、伊賀同心の支配役として活躍しています。小説、映画やドラマに描かれる服部半蔵の多くがこの2代目のこと。江戸・東京で、服部半蔵ゆかりの地の筆頭といえるのが、大久保・百人町(行政地名は新宿区百人町1丁目〜百人町4丁目)です。
家康関東入封時には家康警備を担当

小田原攻め(北条氏降伏)後の天正18年(1590年)、徳川家康は豊臣秀吉の命で関東に転封されます。
形式上は、天正15年(1587年)に秀吉が出した関東・奥両国惣無事令で、家康に関東と陸奥国・出羽国の監視を託したということですが、三河、遠州、駿河などの領地を没収し、遠国に追いやったともいえる処置でした。
徳川家康が江戸に入府する際に、先陣を務めたのが当時は2代目・服部半蔵(父の代から三河で松平家の家臣になった旗本)を頭領とする鉄炮同心百人と玉薬同心(弾薬製造を担当)。
まさに家康警備のシークレットサービスで、そのトップが服部半蔵だったというワケなのです。
徳川家康は、親戚関係でもある北条家に対し、小田原攻めを回避するために、自身が領地を奪う気がないこと、豊臣秀吉に服従することを文書にして懇願していますが、北条氏直はこれに従わず、北条家滅亡になったのです(家康は秀吉に恭順し、後の秀忠を人質として上洛させています)。
家康は、江戸入府に際して、小田原を拠点とした北条家の残党に対する警戒心から(秀吉に服従した徳川への反感がありました)、浜松以来の腹心・内藤清成(現在の新宿御苑周辺に藩邸を構え甲州街道の宿場、内藤新宿のルーツともなっています)をトップに伊賀組(鉄炮百人組)を大久保に配して、日夜訓練を行なって有事に備えていました。
新宿百人町は伊賀組(鉄炮百人組)に由来

新宿百人町は伊賀組(鉄炮百人組)が暮らしたことが名の由来。
慶長7年(1602年)、家康が中野で鷹狩り(たかがり=軍事演習、領地視察などを兼ねた狩猟)をする際、大久保一帯に伊賀組(鉄炮百人組)の屋敷とすることを認め、現在の百人町1丁目〜3丁目界隈に大縄屋敷(おおやまやしき)を構えたのです。
徳川家康は、江戸に入ると江戸城の大改造、江戸の町割り、運河などの構築と壮大な規模の大改造を行ないますが、それを可能にしたのが、こうした百人組への信頼と西方の防備。
服部半蔵自身は、晩年には出家して清水谷に庵を結び、西念寺を建立、松平信康(家康の長男で、信長の命で自刃)の供養を行なっています(自刃に際して半蔵に介錯を依頼されるも、とてもできないと断ったという過去がありました)。
服部半蔵の息子の服部正就(3代目・服部半蔵)も伊賀同心を差配しますが、配下の伊賀同心を、自分の家来のように扱ったため、配下から反発を受け解任されています。
この事件からも、百人番所に詰める同心たちが幕府直轄で、高いプライドがあったことがよくわかります。
鉄砲百人組に由来する百人町に構えた屋敷地の総面積は、15万2000坪もあり、屋敷の北側(百人町3丁目・4丁目)に火縄銃、大筒の練習場に使用する8000坪の「角場」(実弾射撃場)を有していました。
江戸時代の初め、新宿百人町は江戸の西辺防備の拠点だったことがよくわかります。
ちなみに2代目・服部半蔵(服部正成)自身は、長槍を手にし、甲冑を着て足軽を率いた武士で、鉄砲を手にしたわけではありません。
ましてや忍者でもなく、本能寺の変後の家康の逃走(伊賀越え)後に伊賀同心を配下にしていますが、直接の家臣ではなく、指揮官としての立場。
つまり伊賀忍者と服部半蔵は無関係ということに。
服部半蔵は忍者でない! 大久保・百人町との「密なる関係」とは!? | |
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