十返舎一九の墓

十返舎一九の墓

東京都中央区勝どき4丁目、清澄通りと東仲通りの交差点、日蓮宗の寺、東陽院境内にあるが、十返舎一九の墓(じっぺんしゃいっくのはか)。東陽院前の道路際に徳川夢声の筆による「十返舎一九墓所」の石碑が立ち、本堂裏手の屋内墓地の一角に墓塔があります。

道路沿いにあるのは映画制作時に寄進された墓碑

十返舎一九の墓

江戸時代後期の戯作者で絵師でもある十返舎一九は、駿河国・府中(駿府=現在の静岡市葵区)に同心の子として生誕(十返舎一九生家跡の碑が、静岡市葵区両替町1丁目に立っています)。
当初は、駿府町奉行・小田切直平に仕える武士でしたが、大坂(現・大阪市)で近松余七の名で浄瑠璃(じょうるり)作者となった後、江戸に出て版元・蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろうの食客となって仕事を手伝ううちに、戯作の道に。
享和2年(1802年)に出版した『東海道中膝栗毛』は、江戸時代の旅行ブームを生み出すほどのヒット作となり、流行作家となっています(背景には、江戸時代後期、貸本屋を通じた一般読者の増加と、街道や舟運の整備による庶民の旅の隆盛がありました)。

『続膝栗毛 八編 従木曽路善光寺道』では安曇野が詳細に描かれていますが、松本の版元・高見甚左衛門の招きで、木曽路から松本平に入り、善光寺道、安曇野を取材しています。
『東海道中膝栗毛』は、弥次喜多(弥次さん・喜多さん)の珍道中が描かれていますが、登場人物もオリジナルでは駿河出身。
実踏取材を踏まえた膝栗毛は、旅行のガイド書的な性格もあり、庶民に受け入れられたのです。

十返舎一九は、天保2年8月7日(1831年9月12日)、67歳で没し、当時、浅草永住町(現・台東区元浅草)にあった善立寺の子院(清正公堂)、東陽院に葬られています。
東陽院は、関東大震災で被災し、昭和2年に現寺地に移転、昭和5年に鉄筋コンクリート造りの屋内墓地が完成し、そのなかに十返舎一九の墓塔が移されています。

墓塔の正面向かって右から二番目に一九の戒名「心月院一九日光信士」が刻まれ、台石中央には一九が用いた印形の熊手と(貞)の組合せが施されています。
左側面には「此の世をは とりやお暇に線香の 煙とともに灰さようなら」という一九らしい辞世の句も刻まれています。

東陽院の入口、道路沿いにある「十返舎一九墓所」(徳川夢声筆)は、昭和33年2月、東京映画会社が『弥次喜多道中記』(監督・千葉泰樹、弥次さん役・加東大介、喜多さん役・小林桂樹、十返舎一九・徳川夢声/イーストマンカラー作品)の制作にあたって寄進したものです。

十返舎一九の墓
名称 十返舎一九の墓/じゅっぺんしゃいっくのはか
所在地 東京都中央区勝どき4丁目
関連HP 中央区公式ホームページ
電車・バスで 都営地下鉄かちどき橋駅から徒歩5分
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
問い合わせ 中央区立郷土資料館 TEL:03-3551-2167
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。
十返舎一九の墓

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