東京都北区東田端1丁目、JR田端駅北口に隣接して新田端大橋が架かっていますが、その脇にある田端ふれあい橋が、昭和10年に竣工した田端大橋。東京府(現・東京都)の委託で、鉄道省が架橋し全長135mの跨線橋。戦艦の建造技術を活用し、当時としては東洋最大級となる全溶接橋だった少しいかつい橋です。
筑後川昇開橋の設計者、稲葉権兵衛が手掛けた跨線橋

計画段階での橋の名前は、「江戸坂跨線道路橋」。
全長135.0m、幅員13.8m、道路幅員11.0mで、鋼重は591トン。
設計は鉄道省大臣官房研究所の稲葉権兵衛。
関東大震災の震災復興事業で架橋された総武本線の昭和橋架道橋、昇降式可動橋の筑後川昇開橋の設計者です。
建設は勝鬨橋や清洲橋、白鬚橋、永代橋など、震災復興の橋梁も手掛けた川崎造船所(川崎重工の前身)。
戦艦「榛名」、「伊勢」なども建造しているのでその電気溶接技術を橋梁に応用しているのです。
「江戸坂跨線道路橋」の江戸坂というのは田端駅前にある坂道で、田端の台地から下谷浅草方面へ出る坂道のこと。
田端では、明治末から昭和初期に詩人・室生犀星、 芥川龍之介、萩原朔太郎が暮らして友情を育み、多くの文士や芸術家達が集まったことで田端文士村と呼ばれていました。
戦艦の技術を用いて田端に跨線橋ができたのは、田端が鉄道の要衝だったから。
日本鉄道(現・東北本線)の田端駅が明治29年に開業、同時に、土浦線(現・常磐線)が開通、田端機関庫が設置されたのを始まりに、明治36年、池袋駅への豊島線(現・山手線/当時の山手線は現在の赤羽線です)開通と発展していました。
常磐線の前身、土浦線も当時は田端駅でスイッチバックし、上野駅に向かっていたのです(明治36年に土浦線日暮里~三河島間が開通、田端駅侵入は貨物列車のみに)。
地震にも耐える頑強な田端大橋ですが、老朽化で建て替え計画が進展。
新田端大橋が架橋された際に撤去される予定でしたが、埼玉大学・田島二郎教授などが土木的な価値もあると提議し、平成4年に歩行者専用「田端ふれあい橋」として再生されています。
200系新幹線前頭部の連結器カバーや車輪、在来線のポイント転換用レバーなどが展示され、鉄道の街を表しています。

戦艦建造の技術で誕生の「田端大橋」、歩行者専用橋として健在! | |
名称 | 田端ふれあい橋/たばたふれあいばし |
所在地 | 東京都北区東田端1-17 |
関連HP | 東京都北区公式ホームページ |
電車・バスで | JR田端駅から徒歩1分 |
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