東京都下、伊豆諸島の火山島、三宅島。2025年6月17日(火)午前から山頂の火口直下を震源とする地震活動が活発になり、気象庁は昼過ぎに噴火警戒レベルを火口周辺規制を示す「2」に引き上げました。1983年、2000年の噴火では全島避難となりましたが、2013年1月22日を最後に、噴火活動はありません。
20世紀は20年周期で爆発、地下のマグマが蓄積中!

気象庁の発表では、三宅島(東京都三宅村)では2025年6月17日(火)10:00頃から、山頂火口の直下を震源とする微小な火山性地震が増加。
通常は1日当たり数回程度で推移してきましたが、6月17日は15:00までに59回にも及ぶ回数を記録。
山頂方向が上がるような地盤の変動も観測されたことから、6月17日12:50に火口周辺警報を発表し、噴火警戒レベルを「活火山であることに留意」を示す「1」から、「火口周辺規制」を示す「2」に引き上げています。
昼ごろをピークに地震の回数は減少していますが、三宅島では1983年、2000年の噴火で全島避難を余儀なくされています。
2000年の全島避難は、4年半にわたって全島民が島外で避難生活を送っています。
噴火は2013年1月22日を最後に起きていませんが、最近では、山の深い場所の膨張を示す地盤の変動が確認され、マグマの蓄積が進んでいることが判明。
1983年、2000年との間は、17年ということで、すでに最後の大爆発から25年が経過していることで、地下のマグマは着実に増えているということに。
1983年の大噴火では、雄山(おやま)の南西山腹・二男山(になんやま)付近の割れ目から溶岩が噴き上がり、3方向に溶岩が流れ、そのうちのひとつが島最大の阿古集落400棟(阿古温泉郷、当時1300人が生活)を埋め尽くす事態が発生。
溶岩流が集落に到達したのは、最終の避難バスが集落発車したわずか10分後のことだったという緊迫した状況になったのです。
最後まで集落に残り、献身的な作業を継続した消防団や警察、医者、教職員たちは溶岩で退路を塞がれ、間一髪、漁船に飛び乗って逃げたため、人的被害はゼロですんだのです。
溶岩流は1000度もの高温。
数ヶ月後に固まった溶岩流の上を歩くと、靴の底が溶けてしまうほどだったといい、島に戻るには4年5ヶ月もの歳月を要したのです。
これから夏の観光シーズンを迎えますが、三宅島は厳しく火山活動が監視されているので、突然爆発する可能性はありませんが、気象庁や専門家は今後の火山活動に注意するように呼びかけています。
いつ噴火が起こるか具体的な予測は難しいものの、有感地震の増加など前兆はあるので、慌てずに行動することも重要。
ちなみに三宅島の戦後の噴火活動は、20世紀以降は、1940年(海岸近くの居住地域の山腹で噴火、11人が死亡)、1962年(山腹から噴火で溶岩流流出、学童は島外へ避難)、そして1983年、2000年と20年ほどの周期で爆発を繰り返しているので注意が必要です(ただし1940年の前の噴火は、1874年で66年空いています)。

1983年、2000年に全島避難の三宅島、噴火警戒レベル2(火口周辺規制)に引き上げ! | |
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