東京・錦糸町駅前に「北斎通り」があるのは、なぜ!?

北斎通り

東京都墨田区、JR・東京メトロ錦糸町駅の北側、東西に走る道路が「北斎通り」。葛飾北斎(かつしかほくさい)は、宝暦10年9月23日(1760年10月31日)頃、「本所割下水(ほんじょわりげすい)の傍(かたわら)」で生まれたとされ、現在の墨田区亀沢1丁目〜4丁目、つまりは「北斎通り」界隈が生誕地と推測されているのです。

北斎は現在の「北斎通り」界隈で生誕

葛飾北斎の出自については定かでなく、諸説ありますが、 文政2年〜 4年(1819年〜1821年)に式亭三馬が補記した『浮世絵類考』には「本所の産」と記され、飯島虚心『葛飾北斎伝』(明治26年)には「北斎は、宝暦十年九月本所割下水に於きて生る」とあり、本所割下水(ほんじょわりげすい)近くで生まれたというのが定説。

聞き慣れない本所割下水ですが、明暦3年(1657年)も明暦の大火後、江戸は土地の不足から隅田川左岸の湿地帯の開発が進みます。
その開発時に排水を目的に設けられた水路が割下水で、建築資材を舟で運び込む運河の役割をも担っていました。

本所の町は、江戸時代に初めて開発された防災都市で、太平の世を反映して碁盤目状に道を配し、掘割として本所割下水を通したのです。
道路を割って掘削し、掘割としたため、周辺は当時の振興住宅地で、そのなかに北斎の生誕した家(北斎の父親は川村姓だったことしかわかっていません)があったということに。

江戸時代の町人文化といえば文化文政(1804年〜1830年)に花開いたことで知られていますが、人情本や俳諧、川柳、浮世絵などの町人文化の発信源となったのがこの新興防災都市・本所界隈だったのです。

葛飾北斎が生まれたのは川村家で、母方の先祖は赤穂浪士に討ち取られた三河・吉良上野介の家臣、小林平八郎だとされています。
北斎は、幕府の御用鏡師である中島伊勢の養子になり、浮世絵の世界に入ります。
生涯93回にわたる「引っ越し魔」で、画号も30以上変えていますが、葛飾北斎を名乗ったのは、まさに文化文政期の文化2年〜6年(1805年〜1809年)のわずかな間。
墨田区によれば「この地が下総国葛飾領であったことから葛飾北斎と名のりました」ということに。

その本所割下水が現在の「北斎通り」で、1kmほどの道の両側に北斎の浮世絵103枚を配し、北斎の浮世絵を鑑賞しながら歩くことができます。

東京・錦糸町駅前に「北斎通り」があるのは、なぜ!?
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誓教寺・葛飾北斎の墓

東京都台東区元浅草4丁目、かっぱ橋道具街の南西にある浄土宗、誓教寺(せいきょうじ)。葛飾北斎の墓(東京都指定旧跡)があることで知られ、葛飾北斎の偉業を称えた胸像があります。葛飾北斎は、江戸・本所で生まれ、生涯に93回の引越しを重ね、画号も3

北斎通り

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