江戸城の西端、内堀の現・半蔵濠に面した門が、半蔵門。江戸城築城時からの門だと推測され、大手門が正門であるのに対し、搦手門(からめてもん=裏門)的な存在です。眼の前が甲州街道で、内藤新宿へと通じています。服部半蔵ゆかりの半蔵門、非常時の「将軍脱出ルート」だった可能性が大なのです。
服部半蔵は伊賀忍者でなく、徳川家の譜代家臣

この半蔵門という名は、徳川十六神将のひとり、服部半蔵(服部正成)に由来。
服部半蔵(服部正成)は、伊賀忍者のようにいわれていますが、実は忍者ではなく、親(服部保長)の代から三河在住の旗本。
父・服部保長(はっとりやすなが)は、伊賀国花垣村(現・三重県伊賀市)出身で、忍びである可能性もありますが生活が逼迫したため、足利将軍家に仕えようとしますが、将軍家も衰退していく過程だったため、三河国岡崎(現・愛知県岡崎市)へ移り、家康の祖父・松平清康(まつだいらきよやす)の配下となります(松平清康上洛の際、京で出会ったと推測できます)。
この父・服部保長の三河移住という英断が、服部家のサクセスストーリーの出発点。
松平清康は三河を統一(家康の父・松平広忠は早逝)、今川家の人質時代(駿府で英才教育を受けたとも)を経て、家康の天下統一に欠かせない役割を果たしたのが服部家です。
とくに服部半蔵(服部正成)は、本能寺の変の際に、堺に滞在する家康が三河・岡崎へと退避するルートを確保、自身のルーツである伊賀衆を味方につけて「伊賀越え」を成功させているのです。
伊賀忍者の頭領のようなイメージもありますが、実は服部半蔵(服部正成)自体は三河国生まれ(現・愛知県岡崎市伊賀町で生誕)の譜代家臣ということに。
江戸城陥落の際には、半蔵門から脱出するプラン!?

槍の名手として「鬼半蔵」として恐れられたように、当時は忍者というイメージは皆無だったことがわかります。
伊賀越え、多くの戦(いくさ)の活躍で(姉川の戦い、三方ヶ原の戦いでは一番槍)、家康は伊賀衆(伊賀同心組)と甲賀衆を指揮権を服部半蔵(服部正成)に与えます。
さらに鉄砲同心としても活躍したので、鉄砲に関する知識も有していたことがわかります。
豊臣秀吉の命による家康の江戸入封の際には、その警護役を務めていることからも、家康の信頼ぶりがわかります。
その際、伊賀組の与力30騎・同心200人を従えたとされていますが、実は伊賀組と服部半蔵との関係には軋轢があったともいわれています。
これは、伊賀組は、家康の家臣であって、服部半蔵(服部正成)の配下ではないと考えたためで、父の代に伊賀を捨てたということに対して厳しい目線があったと推測できます。
江戸城を近世城郭へと整備した際には、家康は伊賀組を大久保(現在の新大久保駅周辺の百人町)に配し、鉄砲の訓練をさせています。
服部半蔵(服部正成)は、麹町辺りに屋敷を与えられ、甲州街道沿いには服部半蔵の屋敷と家臣の屋敷、伊賀同心らの屋敷が並んでいました。
つまり、江戸城が陥落などという際に、徳川将軍は半蔵門を脱出、伊賀組などの護衛で、八王子を経て甲府方面へと逃げ延びる算段だったと推測できます。
深謀遠慮の家康らしいともいえる脱出プランですが、これはあくまで後世の推測にすぎません。
江戸時代には甲州街道に面した強固な枡形門だった半蔵門。
その立地を考えると、たしかに脱出プランがあったようにも思えてきます。
服部半蔵ゆかりの半蔵門、江戸城の「将軍脱出ルート」だった!? | |
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