砂場・藪・更科、「東京三大そば」とは!?

江戸時代、江戸のそば文化を背景に生まれた江戸三大そば。明治維新後もその3つの流れは今に続き、現在でも東京の手打ちそばの潮流は大きく分けて3つ。「東京三大そば」と称されるのが、更科(さらしな)、藪(やぶ)、砂場(すなば)です。暖簾分けなどで大きく広がったのがこの3つの流れです。

砂場そば

江戸のそばのルーツは大阪に!?

意外にもルーツは大阪というそばが、砂場そば。
天正11年(1583年)、豊臣秀吉が大坂城(現・大阪城)築城の際、城下のあちこちに資材置き場が配されましたが、そのうちのひとつ、砂場(現・大阪府大阪市西区新町2丁目)。
地名ではなく、砂や砂利が置いた場所という意味合いですが、「津国屋」、「和泉屋」の2軒のそば屋が営業、このそば屋が江戸に進出して「砂場そば」を名乗ったのが系統としての始まり。
大阪だとうどん文化を思い浮かべますが、戦国時代から江戸時代初期には小麦粉は高級品。
それに代わってそばが庶民の味でした。
北前船での西廻り舟運が充実すると昆布で出汁(だし)をとる文化、つまりはうどんが食されるようになったのです。
商いとして初めてそば店を始めたのは大坂(現・大阪)というのが定説で、江戸時代の中期頃までに江戸に移ったと推測されています。
寛延4年(1751年)の『蕎麦全書』にも薬研堀「大和屋大坂砂場そば」が記載されています。
「大和屋大坂砂場そば」は江戸のそば通・日新舎友蕎子(ゆうきょうし)の目に留まり、喧伝(けんでん)されて一躍人気を博しています。
江戸のそばブームは、元禄年間(1688年〜1704年)なので、ブームに便乗して大坂から江戸へという可能性も。
老舗としては日本橋の室町砂場(明治2年創業/中央区日本橋室町4-1-13)、虎ノ門大坂屋砂場(明治5年創業/港区虎ノ門1-10-6)など。

【特徴】

甘く濃いそばつゆが特徴で、そば粉8割、つなぎの小麦粉2割の「二八そば」でしなやかな食感が現代人にも愛される味。
天ざるは砂場そばがルーツで、そば、つゆ、天ぷらの三位一体(さんみいったい)の味は、砂場でこそ味わいたいものです。

藪そば

江戸の職人に愛されたそば

藪そばのルーツでもっとも歴史があるといわれるのが、雑司が谷(現・東京都豊島区雑司が谷)にあった「爺が蕎麦」 (じじがそば)といわれています。
有名な鬼子母神(きしもじん)の東、鬱蒼(うっそう)と茂る竹藪のなかにあったので、通称「藪そば」に。
人気があったため、寛政年間(1789年~1801年)には「薮」を名乗るそば屋が増えています。
団子坂(現・東京都文京区千駄木)にあった「蔦屋」は、当時「団子坂薮蕎麦」と称されていましたが、この店が現在の藪そばの名店「かんだやぶそば」(明治13年創業/千代田区神田淡路町2-10)のルーツということになります。
その親戚筋にあたるのが「並木薮蕎麦」(大正2年創業/台東区雷門2-11-9)、「池の端薮蕎麦」(昭和29年創業・平成28年閉店/文京区湯島3-44-7)で、合わせて 「薮御三家」。
このほか、明治時代に暖簾分けした 「上野藪そば」(明治25年創業/台東区上野6-9-16)などがあります。

【特徴】

そばの実の外側にある甘皮を適度に挽き込むため味が濃く、それに合わせてつゆも濃いめに仕立てるのが伝統(客層にせっかちな職人が多かったため、手早くつゆにつけで味わうために考案されたとも)。

更科そば

信州人が江戸で生んだ御膳そば

信州産の織物を行商する反物商・布屋清右衛門が 上総飯野藩の藩主・保科正率(ほしなまさのり)の麻布網代町にあった江戸屋敷に出入りした際、そば打ちの腕前を高く評価され、その助言でそば屋に転向。
住まいであった麻布十番の長屋に近い、麻布永坂高稲荷下に「信州更科蕎麦処」を開店したのが始まり。
店名は、そばの産地、信州更級郡(さらしなぐん)の「更」と保科家の「科」をとって「信州更科 蕎麦処」としたのです。

初代が名乗った布屋が更科系の名前で、麻布にある「総本家更科堀井」(港区元麻布3-11-4)、「永坂更科 布屋太兵衛」(港区麻布十番1-8-7)が有名。

【特徴】

グルテンの多いそばの実中心部分だけで打つ上品なそばなので、御膳そばとも称されます。
繊細な喉ごしを楽しむもので、つゆも淡く甘めということに。
ひと口目はそば本来の味を楽しむため、つゆを付けずに食べるのがおすすめです。
伸びやすいので早めに味わう必要も。

砂場・藪・更科、「東京三大そば」とは!?
掲載の内容は取材時のものです。最新の情報をご確認の上、おでかけ下さい。

関連記事

よく読まれている記事