江戸城(皇居東御苑)にある謎の石室、その役割とは!?

かつて江戸城の天守台や大奥・中奥などがあったのは、現在、宮内庁が所管する皇居附属の庭園・皇居東御苑(東京都千代田区)。城郭の石垣上に建てられた富士見多聞(現存)の北側にあるのが、謎を秘めた石室です。古墳の石室のようでも、防空壕の雰囲気もある石室ですが、実は江戸時代の構築。その役割は!?

大奥の調度品などの貴重品を納めた富士見御宝蔵!?

蓮池濠(はすいけぼり)に面した江戸城の防御機能の遺構が富士見多聞(ふじみたもん)。
多聞とは防御と装飾とを兼ねた長屋作りの武器庫のことで、江戸城の西端部にあり、かつては富士山を眺望したことでその名があります。
その北東部が大奥、東側が中奥という配置で、中奥と大奥の境、蓮池濠沿いの石垣に築かれているのが、謎を秘めた石室です。
石室前には、江戸時代には「御鈴廊下」(おすずろうか)と呼ばれる将軍と近習だけが通行を許される渡り廊下がありました。
大奥に将軍が入る時、鈴を鳴らしたのが名の由来です。

将軍は、普段は中奥の「御休息之間」(ごきゅうそくのま)が居間兼執務室で、ここで眠りますが、起床後、大奥に向かい、そこで御台所の挨拶を受けるのが日課でした。
また大奥に泊まる際にも幅2間、長さ15間の曲がりくねった畳廊下の「御鈴廊下」を渡り、奥女中の出迎えを受けて大奥へと入りました。

中奥と大奥は銅の塀で厳格に分離されていましたが、その分離される脇に石室が設置してあったのです。
「御鈴廊下」には上之御鈴廊下、下之御鈴廊下があり、普段使用されたのは石室に近い上之御鈴廊下の方で、下之御鈴廊下は火事などの際の緊急避難通路になっていました。

さてさて、注目の石室ですが、伊豆半島で切り出した伊豆石(安山岩)を江戸まで船で運んだ切石を切れ目なく組んだ精巧な造りで、内部は20平方メートルほど。
ホテルでいえばツインルームくらいの広さはあります。

耐火性の必要なものを納めるための石蔵ということから、大奥御納戸の脇という場所柄から大奥の調度品や文書類を収蔵する富士見御宝蔵ではないかと推測されていますが、本丸御殿が度重なる火災で炎上したときの焼痕も残されることから、火災の際の大奥の一時避難場所になっていた可能性もあります。

江戸城の抜け穴説、御金蔵説もありますが、こちらはどうも怪しい説で、太平の世の中に抜け穴は必要ありませんし、御金蔵は大奥の天守寄り、最奥部に防火建築の蔵があったので、その必要性はないといえます。
抜け穴説も、本来なら井戸から抜けるというのが常識的な考えですが、江戸城の地盤から無理だということが判明しています。

やはり、大奥の調度品などの貴重品を納めた富士見御宝蔵という結論に導かれます。
江戸時代には留守居支配の富士見宝蔵番が十数人いて、朝番が8:00、夕番が10:00、不寝番が16:00に登城して、24時間態勢で警護していました。

江戸城(皇居東御苑)にある謎の石室、その役割とは!?
名称 石室(皇居東御苑)/いしむろ(こうきょひがしぎょえん)
所在地 東京都千代田区千代田1-1
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石室(皇居東御苑)

現在は皇居東御苑の一部となった江戸城の本丸。その本丸跡の蓮池濠沿いにあるのが石室。文字通り、石で組んだ室(むろ=部屋)で、内部は20平方メートルほどの広さとなっています。石は伊豆半島から船で運んだ安山岩(伊豆石)の切石で、隙間もないほどキッ

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