慶長17年(1612年)の禁教令以降、江戸でも多くの潜伏キリシタンが信教を守っていましたが、元和9年(1623年)、2代将軍・徳川秀忠が隠居し、徳川家光が3代将軍に就任すると、さらに宗教的な弾圧は過酷に。ついにキリシタン50人が殉教するという元和キリシタン弾圧事件が勃発しています。
江戸全体では、2000名近くのキリシタンが殉教
徳川家康が駿府(現・静岡県静岡市)に隠居し、大御所政治を行なっていた元和元年(1615年)、徳川家康の小姓で、駿府で家康の側に仕えた原主水(はらもんど=原胤信・はらたねのぶ)も改宗を拒否したため、額に十字の烙印を押し、さらに手足の指全てを切断、足の筋を切るという過酷な罰を下しています。
自身の周囲にもキリスト教徒がいて、しかも改宗にも頑なに応じないという姿勢は、将軍家をさらに禁教へと歩ませることに。
徳川家光が3代将軍に就任する元和9年(1623年)、徳川家光は、父・徳川秀忠の助言、さらに老中・土井利勝(どいとしかつ)、永井尚政(ながいなおまさ)、 酒井忠世(さかいただよ)などの意見を取り入れ、キリシタン50人の処刑を決定。
原主水は伝馬町牢獄から引き出され、江戸市中引回し(現在の室町〜日本橋〜京橋〜銀座〜新橋〜浜松町〜三田〜芝口)の上、高輪・札の辻(高札場)で火刑となっています。
同時に、イエスズ会のジロラモ・デ・アンゼリス神父、フランシスコ会のフランシスコ・ガルベス神父など50人のキリシタンが火刑となっていますが、これが江戸の大殉教(えどのだいじゅんきょう/Great Martyrdom of Edo)。
徳川将軍家の治世をさらに強固なものにしようと考えたのでしょう、10月13日(旧暦)の仏滅を選び、江戸参府の諸大名にも見せ付ける場所として、高輪、江戸城から1里半の札の辻(高札場)の山の斜面で処刑を実施しています。
江戸市中からは多くの人々が集まり広い野原や周りの丘は群衆でいっぱいで、そのなかには江戸参府途中の大名も含まれていました。
潜伏キリシタンに対する弾圧というと長崎を思い浮かべますが、江戸でも激しい弾圧があり、その後数年にわたり、女性や子供、キリシタンを匿った人々をも含め、高輪で100名近くの人々が処刑され、江戸全体では、2000名近くのキリシタンが殉教しています。
江戸のキリシタンが殉教した地(江戸キリシタン殉教地)は、東海道・高輪の札の辻(高札場)ほか、浅草の鳥越の刑場(現・浅草カトリック教会の裏手)、小伝馬町牢獄、品川海岸、四谷、奥州街道の入口などで、人の目につきやすい場所での処刑も行なわれています。
高輪の札の辻(高札場)の処刑場は、元和キリシタン遺跡として公園化しています。
江戸の町にもあった! キリシタンの弾圧と処刑 | |
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