江戸(東京)の「鬼門・裏鬼門」を封じた寺社は、どこ!?

慶長8年(1603)、江戸に徳川幕府を開いた徳川家康は、江戸に城と城下町を築くにあたり、参謀となった天海に関東の地相を調べさせました。江戸、現在の東京には鬼門と、裏鬼門があり、家康は鬼門と裏鬼門を封じて城下町を築いたといわれています。では、その鬼門、裏鬼門を封じた寺社は、どこだったのでしょう?

江戸は京都と同様に「四神相応」にふさわしい地

天海が家康の参謀となった時期は定かでありません。
比叡山を再興した天台宗の僧・天海は、最澄(伝教大師)に始まり、円仁、円珍を経て安然(あんねん)で完成する台密(天台密教)の流れ。
陰陽道をも修め、京や比叡山にも精通する天海は、平安京など、日本の古都が古代に中国から伝わった「四神相応」にふさわしい地を選んでいたことを知っていて、それを江戸の町作りにも生かしたのだと推測されます。
四神に相応する地形であれば、風水思想における「気」を貯えることになり、発展すると考えたのです。

歴史を紐解くと、桓武天皇も平安京を築くにあたり、「賀殿郡宇多の村」に「大納言藤原小黒丸・参議左大弁紀古佐美・大僧都玄慶」を派遣、視察させ、「此地の体を見るに、左青龍・右白虎・前朱雀・後玄武、四神相応の地也。尤帝都を定むるにたれり」との答申を得て、都に定めているのです。

こうした平安京遷都の歴史を天海も、そして家康も知っていたはず。
家康は江戸の町を築くにあたって、徳川の治世が脈々と続くためにも、その地が、「四神相応」にふさわしいのかをまずは考えたのです。

江戸城を築いた地は、江戸湾に近い本丸台地ですが、この離れ小島のような台地に向かって放射状に上野台地などが半島のように伸びています。

江戸城の鬼門を封じた寛永寺、裏鬼門封じの増上寺

陰陽道で北東(丑と寅の間)は鬼が出入りする鬼門(江戸城本丸を中心にして北東方向)。
裏鬼門はその反対の南西となります。

家康、秀忠、家光と3代の徳川将軍に参謀として仕えた天海は、1625年、上野の山(上野台地)を比叡山に見立て、寛永寺を創建。
平安京の鬼門封じが天海自らが復興した比叡山延暦寺であることと同様に、江戸の鬼門封じの地として寛永寺を建立したのです。
しかも山号は東叡山と定め、西の比叡山、東の東叡山という関係を明らかにしています。
台地下の地名を坂本(下谷坂本町一帯)としたのも、比叡山と坂本を真似た(見立てた)もの。
大きさは異なりますが、不忍池は、「琵琶湖に見立てた池」ということに。

神田明神(神田神社)も将門塚(千代田区大手町)にあった社を1616年、鬼門封じの江戸城北東の現社地に遷座し、「江戸総鎮守」となったのです。
さらに、北東、鬼門の方向にある浅草寺を幕府の祈願所に定め、家康没後には、東照大権現を祀る東照宮を建立し、万全を期しています。

裏鬼門を封じるのは、増上寺と日枝神社。
2代将軍・徳川秀忠は、日光ではなく増上寺に葬って徳川家の菩提寺として、裏鬼門を封じています。

赤坂の日枝神社は、もともと徳川家康が江戸に移封された際、江戸城内の紅葉山に遷座させ、江戸城の鎮守とした社で、比叡山延暦寺の鎮守社・日吉大社(神仏習合の江戸時代には山王権現)。
家康は山王権現を徳川家の徳川家の産土神(うぶすながみ)としたのです。
現在地に遷座したのは、万治2年(1659年)、4代将軍・徳川家綱の時代です。
6月15日の例祭『山王祭』は山車や神輿が城内に入り、将軍が上覧したことから『天下祭』と称していました。

江戸の町の守護神・神田明神、そして江戸城の守護神・日枝神社という役割分担もあったのです。

鬼門封じ、裏鬼門封じなど、単なる偶然と考える人もいるかもしれません。
徳川家の菩提寺である寛永寺と増上寺、それに神田神社を結ぶ直線と、浅草寺と日枝神社を結ぶ直線が交わる点には、なんと江戸城が位置しているので、単なる偶然と考えるよりも、計画的な配置とするほうが必然的です。

歴代の徳川将軍が、寛永寺と増上寺に分けて埋葬されているのも、死して江戸の町を守るということも想定していたのでしょう。
大御所・家康と、3代・家光は、遠く関東平野の鬼門を封じる日光に眠り、全体として鬼門封じが完成しているのです。

そしてもうひとつ、裏鬼門を封じる東海道・駿府(静岡県静岡市)の久能山東照宮。
最後の抑えとして、最前線で、家康は東照大権現となって、江戸を守っているのです。

江戸(東京)の「鬼門・裏鬼門」を封じた寺社は、どこ!?
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増上寺

徳川将軍家の菩提寺として有名。寺としての歴史は古く、その創建は1393(明徳4)年まで遡ります。徳川家康の菩提寺として芝に移されてからは、東国随一の浄土宗寺院として繁栄を続けてきましたた。東京大空襲の戦火でほとんどの建物を焼失してしまいまし

寛永寺根本中堂

寛永寺根本中堂

西の比叡山に対し、東国の天台宗の拠点ということで東叡山と名付けられたのが上野の山の寛永寺。寛永2年(1625年)、慈眼大師・天海大僧正の創建で、その中心となる堂宇が元禄11年(1698年)建立の根本中堂です。往時には今の上野公園の大噴水の地

日枝神社

太田道灌の江戸城築城の際に、川越喜多院に祀られた日吉社(山王権現)を勧請して創建。家康が江戸城の鎮守としました。2代将軍・徳川秀忠が江戸城外の麹町隼町に遷し、庶民の信仰が始まりました。国宝だった社殿は戦災で失いましたが、今も東京の総氏神とし

神田明神

正式名は神田神社ですが、江戸時代以前からの神田明神で知られる「江戸総鎮守」。今でも東京の都心部、神田、日本橋、秋葉原、大手町、丸の内など108の町々の総氏神となっています。京都の祇園祭、大阪の天神祭とならんで「日本の三大祭」に数えられる神田

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