志村一里塚

志村一里塚

慶長9年2月4日(1604年3月4日)、徳川家康が我が子・秀忠に命じて江戸・日本橋を起点とする全国の街道沿いに、1里(4km)毎に築かせたのが一里塚。街道の両側に対になって塚を築きその上に木を植えましたが、板橋区の志村一里塚は、東京都内では西ヶ原一里塚(北区)とともに2ヶ所しか現存しない貴重なもので国の史跡です。

中山道、日本橋から3里目の一里塚は往時のままの位置に塚が現存!

中山道は日本橋から、日光御成道を分ける本郷追分(現・東京大学農学部前/現存せず)に最初の一里塚、2里目の平尾(現・JR板橋駅近辺/現存せず)、そして3里目が志村一里塚です。

旅人にとっては道のりの目安になったほか、塚に植えられた榎(えのき)などの木陰が格好の休憩場所になったと推測できます。
ところが、明治維新を迎え、明治9年10月には内務卿から一里塚廃毀(いちりずかはいき)の通達「各街道一里塚ノ儀、里程測定標杭建設既済ノ地方ニ限リ、古墳旧跡ノ類ヲ其儘一里塚ニ相用或ハ大樹生立往還並木ニ連接シ又ハ目標等ニ相成、自然道路ノ便利ヲナスモノ等ヲ除クノ外、耕地ヲ翳陰スルカ如キ有害無益ノ塚丘ハ総テ廃毀シ・・・」も出され、「有害無益の塚丘」は破却されることになりました。

こうして全国の一里塚の多くは明治の初めに壊され、さらに馬車道への拡幅、自動車増加による拡幅などで、大部分の一里塚が失われていきました。

そんななかで志村一里塚は奇跡的に破却を免れ、大正11年に国の史跡に指定されました。
現在、全国に現存する17ヶ所の一里塚が国の史跡に指定されていますが、志村一里塚は、日本で最初に国の一里塚に指定された4ヶ所のひとつです。

志村一里塚はもともと中山道から少し離れて設置されていました。
そのため、昭和の初めに下板橋から戸田橋までの道幅を25mに拡幅した際にも、移動させることなく、昔の姿を留めることができたのです。

一里塚の建設の総監督を務めたのは石見銀山、土肥金山、佐渡金山などの金山・銀山の開発にも尽力した大久保長安。
塚は道の両側に五間(9m)四方、高さ一丈(3m)の定めによって築かれています。

ちなみに中山道には135ヶ所の一里塚がありましたが、奇跡的に現存するのはこの志村一里塚と、垂井一里塚(岐阜県不破郡垂井町楠田/国の史跡)の2ヶ所のみとなっています。

 

志村一里塚
名称 志村一里塚/しむらいちりづか
Shimura Ichirizuka(Shimura Milestone)
所在地 東京都板橋区志村1-12・小豆沢2-16
関連HP 板橋区公式ホームページ
電車・バスで 都営地下鉄三田線志村坂上駅から徒歩1分
ドライブで 首都高速5号池袋線板橋本町出口・中台出口から約1.8km
駐車場 周辺の有料駐車場を利用
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